講演会聴講メモ

登山家・山野井泰史講演会
「新たなる挑戦」
(2005年10月29日)
所沢市民文化センターミューズ・キューブホールにて


<注意>

(1)下記のメモは、2005年10月29日に行われた「登山家・山野井泰史講演会『新たなる挑戦』」を元に構成されています。
(2)完全な議事録ではなく、一部を除き、あくまで講演を聴いた際のメモですので、山野井氏の発した言葉そのものが記してあるわけではありません。要約や省略、補足した部分もあります。
この色(茶色)の文字の部分は、ほぼ山野井氏の言葉そのものです。
(3)私の聞き違い、勘違い、無知などにより、山野井氏の意図する内容と異なるものになっている可能性もあります。
(4)私自身は主催者とは全く関係ないため、これは公式の記録ではありません。
(5)太字部分は、私が気になった(気に入った)発言で、山野井氏が強調した部分と言うことではありません。
(6)その他、下記の文章に関する文責はすべて神谷にあります。 何か内容などに問題などある場合は対処しますので、こちらまでご連絡ください。




入場料1000円(身体障害者および高校生以下無料)、定員250人 事前予約(先着順)で行われました。250人という定員はほぼ満席という感じでした。
今回は、手話通訳の方がステージに上がられ、同時通訳をしていました。

なお、
2003年5月17日「労山ヤングクライマーズフォーラムIV 山野井泰史氏を迎えて『挑戦の軌跡』」
2004年5月20日「エルク20周年記念イベント 山野井泰史スライド講演会『垂直の記憶』」
の各講演会と内容が重複している部分もありますのでご了承ください。
ギャチュンカン以降の話が知りたい方は、前半をとばして、このあたりからどうぞ。

18時30分に開場。開演までの間、スクリーンで、山野井氏が出演された「情熱大陸」のVTRが流されていた。こういう演出は良い。
番組は、ちょうどギャチュンカンに出発する電車のシーンで終わったのだが、ちゃんと無事帰ってきてくれて良かった、とあらためて思わされた。

19時開演。主催者による簡単なプロフィールの説明の後、山野井氏の話が始まった。

こんばんは。今日は外に出ていないですけど、天気悪いそうで、わざわざご苦労様です。
ご苦労様、という言い方おかしいですね。
ようこそ。
みなさん、1000円も払っていますが、たぶん元は取れないでしょう(笑)。

とりあえず、内容としては、最初の15分間を今まで登ってきたものを見てもらおうと思っています。
聞いたことある人いるかもしれませんが、最近、ギャチュンカンばかりが目立ってしまって、過去の記録を忘れられて、どうも当人としてはつらい。強引にその15分間は昔の記録を見てもらおうと思います。
その後、2002年にギャチュンカンって山を登ってちょっと遭難しますが、それと、最近のポタラという山を、まあ一時間くらい見てもらうことになります。
全部スライドでこう説明していくことになると思いますけど、よろしくお願いします。



ぼくは世界中の山々に行ってきた。大陸で言うと、南米、北米、ヨーロッパ、アジア。海外だけで60近くの山を登ったり降りたりしてきたと思う。
ぼくはやっぱり技術的に難しいもの、あるいは行ったことのない土地、未知なものを求めて登山をしてきた。それは、たとえば、ハイキングしかやらない人が、将来北アルプスの稜線を歩いてみたい、そういう気持ちとあまり変わらないと思う。
ただ、あまりにも難しいものを要求するために成功率はだいたい5割くらい。それはそれでいいと思っている。

ただ、ぼくの変わっているところは、ときどき独りで登ること。人間嫌いというわけではない。単独登攀というのは、技術的にも精神的にも肉体的にも厳しいけれど、終わったあとには、強い思い出が残る。
証拠はどうするかよく言われるが、チョ・オユーでは、ピッケルを差して、写真を撮ったりした。ただカメラも壊れる場合があるし、そのときはそれで仕方がないと思う。

ぼくは小学校くらいから山歩きをしていて、ロッククライミングは中学生のときから始めた。ぼくには教えてくれる人が誰もいなかったので、岩場に独りで行って、ロープもつけずに登り降りしていた。前から勉強も好きではなかったし、たいして優秀な生徒でもなかったので、こういう時間だけが、ぼくにとって大切な時間だった。

ぼくは高校の卒業式の数日後、アメリカに旅立った。高校時代、夜、成田空港でアルバイトをしていて、高校三年の時にすでに40万円か50万円の貯金があった。アメリカでは自由な空気を充分味わうことができた。

【エルキャピタン】
・だいたい4-500mのところで、ポーターレッジを吊して寝る準備をする。下を見ると、人間は米粒くらい。たまらなく気持ちいい。こういった時間が、ぼくはクライミングのどの分野でも一番好きな時間帯。

【1988年バフィン島・トール西壁】
・ぼくが、誰も行かない土地、僻地で最初に大きな岩山を登ったのは、トールという山。岩壁だけで1400mある。だいたい、新宿の高層ビル群、あれの4倍くらい。東京タワーの4倍くらいの高度感、と考えてもらえば判りやすいだろう。
・トールは大変切り立っていて、見上げていると気分が悪くなるほど大きなものだった。ぼくは、だいたいまっすぐ登っていくが、この壁は上の方がオーバーハングしている。登っている最中、よく岩が落ちてきた。ただ、上の方がオーバーハングしているので、ぼくには当たらない。だいたい後ろの方を落ちていった。ただ、その石の大きさがトラックくらいあった(笑)。
・このトールという岩山は、確か七日かけて独りで登ることに成功した。大きな自信にもなったし、自分で言うのも何だが、この登山によって、ぼくは登山の世界でちょっと知られるようになったのも確か。

【1989年、90年パタゴニア・フィッツロイ】
・世界で最も天気の悪いと言われるパタゴニア。常に強風が吹いている。それでもぼくはあえてもっと冒険をおかそうと、向こうの冬にあたる7-8月に登ることにした。
・すごく風が強かった。懸垂下降で降りようとしても、あまりにも上昇気流が激しいために、手を離しても降りないくらい。右を向きたいと思っても、風が強くて右が向けない、そのくらい風が強い場所だった。
・1989年に行ったが失敗。90年に再度チャレンジして成功した。
この登山では、技術的なものより精神的な部分を感じた。孤独とはどういうものか、そう言うことを感じた。ぼくは当時アパートで独り暮らしていて、それも孤独ではあったが、やはり山の中の孤独というのは、とても強いものだった。ただ、ぼくにとって、その孤独も、特別嫌なもの、不快なものではなかった。ぼくは、孤独というものが、山には多少必要なのではないかと思っている。

【1991年ブロード・ピーク】
・初めてのヒマラヤ。8人のメンバーで挑戦。
・8人のメンバーの中で、ぼくは一番元気だった。一生懸命トレーニングしたからなのか、あるいは遺伝的なものなのかは判らない。ただぼくは、薄い酸素の中で誰よりも早く登って歩ける人間だった。たぶん、それはもう才能に近いものかもしれない。残念ながら。
・初めてのヒマラヤで酸素ボンベを使わずに、登頂に成功した。なぜ酸素ボンベを使わないのか、と良く聞かれるが、かっこよく言えば、薄い酸素を味わってみたい、ということ。本当は、あんまりボンベを背負ったりマスクをつけたり、ごちゃごちゃ身体にくっつくのが、良くない、かっこ悪いなと思ってしまうから
・また、雪山では、ワカンもつけない。あれもかっこ悪いと思う。結構、ぼくは格好を気にする方。

【1994年チョー・オユー南西壁】
・8000m級で、なおかつ切り立ったところをたった独りで登ろうと考えた。南西壁は2000mくらいある。そのような登山をやっているのは、世界で一人か二人しかいなかった。
・7500m付近から頭がぼけ始めて、誰かが付いてくるような感覚があった。もちろん、誰もいないのだが、たとえば、深い雪をかき分けているとき、何で後ろの人は交代してくれないんだろう、とか考えていた。テントを張るときも、何でポールを押さえてくれないんだろう、とよく考えていた。ある人に言わせると、人間がぎりぎりの状況の時に、そういう人を感じるらしい。
・50時間かけて登り切ることに成功。大きな夢が実現した瞬間でもある。この登攀で10kg以上やせた。相当身体に負担があったと思う。医者は、相当脳細胞が死んだだろうと言った。でも、もともとぼくの脳細胞100か200しかないので、問題はない。これだけ(講演会で)話せれば大丈夫。

【1995年レディース・フィンガー南西壁】
・正面からは誰にも登られていなかった。このときは3人で向かった。
・荷物がやたら重く、120kgくらいあった。雪がなく、水作りができないので、最初から水を60リットルくらい持っていった。
・食糧が少なくて、とてもおなかが減った。朝、クラッカー4-5枚とコーヒーか紅茶1杯。昼、チョコバー1本。夜、茶碗1杯もないくらいのおかゆ。クライミングのチョークをよく食べていた。ルート名を「ラマダン」(イスラムの断食)と名付けた。

【2000年K2】
・ぼくはK2のような三角形の山が大好き。なるべく頂上がとんがった山がいい。だから、日本人だけど、富士山はあんまり好きではない。なるべくピラミッドのようなとんがった山がいい。
・ベースキャンプから48時間で頂上到着。自分でもびっくりするくらいの体力だった。頂上はとても穏やかで無風快晴だった。
・頭がぼけていたのか、ベースキャンプの人と無線交信するとき、「今の状態はどうですか」と聞かれると「今日はいい天気です」と応えた。「あとどのくらいそこに滞在するんですか」と聞かれても「今日の天気はいいです」と応えた。それしか応えなかったらしい。
頂上からは、名もない山、とても小さい山がたくさん見えた。ぼくはそんな中で、名前がなくてもいい山はあるし、標高が低くてもいい山はたくさんあると思った。有名無名に関係なく、自分がいいなと思う山だけを挑戦したいと思った。

【2002年ギャチュンカン】
・その前にアメリカ・ワイオミング州などでトレーニングをした。4000mくらいのところで岩を登ったり、ハイキングしたり。
ぼくは、難しい登山ばかりをやってるかというとそうでもなくて、ハイキングもするし、沢登りもする。普通の雪山も行くし、何でもする。ただ嫌いなのは、ヤブこぎ。これだけは好きではない(笑)。
・(クライミング中の写真を見ながら)昔はかなり優秀なクライマーだった。しかし、今こういう手になると、そこまでは登れない。まあ、どうでもいいですけど。
・妙子の手はこの時点で指をかなり失っている。そして、ギャチュンカン以降は、ドラえもんのようになってしまいましたね(会場静寂)。笑うところです。ここは……(苦笑)。

・2002年9月チベットに入る。ぼくらにとっては3回目のチベット。チベットに入ってからもトレーニングをした。5000mくらいの所を歩いたり、ときには走ったり。薄い酸素に徐々に慣らしていった。ぼくは大変体調が良かった。6000mくらいでも脈拍が50より前半だった。日本だったら40台くらいだと思う。

・キャラバンは、ヤクを使って荷物を運んでもらった。ヤクは、2000mより下に行くと体調が悪くなるらしい。ぼくと同じです(笑)。道なき道を進んでいくが、ヤクは道がないと前進してくれない。だから、ぼくらが道を造ってあげて、ヤクを通すという感じだった。ぼくらにとっては、こういった誰も入っていない土地というのは大変重要です。ギャチュンカンの20kmくらい隣には、チョモランマがある。そこには毎年多くの登山隊が入ってくるが、ここには誰も入ってこない。それがぼくらには重要なこと。
・13-14歳くらいのヤク使いの女の子がいた。最近お父さんが亡くなって、自分も仕事をしなくてはならないと言うことで、自分がヤク使いの仕事を始めたようだ。ぼくらは、ものすごいたくさんのお金を使って、山の中にいって、命を懸けて遊ぶ。しかし、彼女は一日ものすごい厳しい労働をしても、ほんのわずかしかお金をもらえない。その辺、いろいろと考えさせられるけれど、残念ながら仕方がないことだと思う。
・3日間のキャラバンの後、ベースキャンプに到着。山まで8km以上離れた場所でとても不利な場所だった。しかし、ヤクがこれ以上進めないので仕方がない。ただ、周りには誰も登っていない山がいくつもあって、大変素晴らしい土地だった。
・ベースキャンプには、犬が着いてきた。そして居着いた。ただ、ある日突然この犬はいなくなった。そしていなくなって数日後、大雪になった。たぶん、この犬は天気が悪くなるのが分かっていたのだと思う。

●10月5日
・ベースキャンプ出発。
コックには、5日から6日で帰ってくると行っておいた。その意味は、5-6日経っても帰ってこなかったらネパールに戻ってもいいよ、と言う意味が含まれていた。
ほどよい緊張感のもと出発。嫌な雲が発生していた。クラゲみたいな雲。しかし、その雲はいつもは2-3時間したら消えていたので、そんなに気にすることはないと思っていた。ただ、時計の気圧計の数値はあまり良くなかった。
しかし、ぼくらは出発した。

●10月6日
・夜中に出発。
なぜ、暗いうちから出発するのかというと、太陽が出ると、雪が暖まってしまい、足が潜る。足が潜ると、それだけ体力を使ってしまう。だから暗いうちから出発する
・ぼくらはお互いにロープは結び合わない。片方が墜ちたときに巻き沿いになるのが嫌だから。これは本当の話。あと、ロープを使うとスピードが落ちてしまうということもある。
・7000m付近で2泊目の寝る準備をした。いくら雪を削っても50cmくらいしか削れない。強引にテントを張って、折り重なって寝た。
・このとき、ぼくは右足の感覚をすでに失っていた。本当は靴を脱いでマッサージすればよかったのだが、靴を脱ぐ余裕はなかった。もし、靴を脱いで、それを落としてしまったら大変なことになるので、我慢していた。

●10月7日
・ザックは5-6kgくらい。食糧は二人で1kgなかった。これは危険な考え方だが、ぼくらは5日間の登山を考えた場合、4日分の食糧しか持っていかない。
・雪の下10cmは岩盤になっていてとても登りづらい。あと、ここをまた降りるのかと思うと、とても怖かった。
・7500m付近で初めてきちんとテントを張れた。しかし、妙子はこの時点で体調が悪かった。顔が随分むくみ始めていた。もう高山病の影響を受けていた。しかし、やる気だけはまだあって、頂上に行きたいと言っていた。
・ぼくは体調は良かった。ただ、この時初めて靴を脱ぐことができたが、靴を脱いでみると、靴下がばりばりに凍っていて、右足の足先は、紫か白に変色していた。やばいかなと思ったが、残り450mあきらめられなかった。もう“クライミングマシーン”と化していたので、行くしかなかった

●10月8日
・ものすごい吹雪だったが出発した。
1時間か2時間で、妙子は疲れ切ってあきらめて戻っていった。ぼくは一人で登っていった。妙子がカメラを持っていたので、ぼくは持っていなかった。
・何時間登ったか忘れたが、昼過ぎに頂上に立つことができた。そのときの天気はとても不思議な天気だった。ものすごい風とものすごい雪が降っているのだが、ときどき、上の方に空がちらっちらっと見える不思議な天気だった。
ベースキャンプの方向もちらっちらっと見えていた。(それを見て)やたら遠くに来ちゃったな、という感じたことは、今でも記憶に残っている。

●10月9日
・7500mに戻って、翌朝降り始めたが、10m-20mくらいしか視界がなかった。しかし、ぼくらには降りるしか選択の余地はなかった。と言うのは、そこに待機していても、薄い大気のために、どんどん身体はむしばまれていくから。だから、降りるしかなかった。
・12時間以上行動したけど、7200mまでしか降りられなかった。わずか300mしか降りられなかったことになる。その日は、幅5cmくらいの場所に座って、ロープで身体を固定し、足をぶらぶらさせながら寝た。夜、何度もぼくらの横を雪崩が通過した。

●10月10日
・10時間以上ロープを使いながら降りたが、夕方、ついにぼくらに大きい雪崩が襲ってきた。ぼくは、ロープで彼女を確保していたが、彼女は墜ちていった。そして、(彼女は)岩壁に宙づりになった。
・彼女の元にぼくは行かなければならなかった。しかし、そのためには、岩の割れ目にハーケンを打たなければならないのだが、雪崩の衝撃で目がほとんど見えなくなっていた
素手になって、どの指が普段使わないか、ということを考えた。左手の小指は普段あまり使わないだろうと思って、左手の小指一本で岩の割れ目を探した。そこでハーケンを1本打ち込んだ。次は右手の小指が要らないか、と思って右手の小指を使った。1時間に1本ずつハーケンを打っていった。指はすぐにカチカチに凍ってしまった。
・その晩、やっと妙子の元に戻った。二人とも宙づりの状態で寝た。

●10月11日
・ずっと降り続けて、やっと氷河上の平らなところに降りられた。この時点で妙子はもう随分ひどい凍傷になっていたし、4日近く何も食べていなかった。また、この時点で水分も受け付けられないくらい胃がおかしくなっていた。
ぼくも相当弱っていて、幻覚を見るようになっていた。ちょっと気を抜くとすぐに目の前にイスラム風の人が現われた。ぼくは彼と会話しないと失礼だと思った。彼は外人だから英語で話しかけなきゃいけないな、と思って、一生懸命、英語で話しかけた。不思議なのは、帰ってくる言葉はなんか日本語だったような気がすること。
ぼくは幽霊とかは全然信じないが、確かに見た。目の前4-5m先に彼はいつもいた。それだけ疲れ切っていたということだ。

●10月12日
・ベースキャンプに向けて歩き出した。普通だったら5-6時間で帰れる場所だが、たくさん雪が降っていたし、非常に疲れていたので、なかなか着かなかった。とくに妙子は、少し歩いたら立ち止まる、少し歩いたら吐くという状態。胃液みたいなものをやたら吐いていて、ほとんど進めなかった。
その日真夜中までずっと歩き続けたが、ベースキャンプにたどり着くことはできなかった。
・途中で荷物を捨ててきているので、寝袋も食糧も何もない状態でまた夜を迎えた。
その晩は、ぼくもずっと震えていた。やたら涙が出てきた。ぼくもやたら胃液を吐いていた。妙子も震えていたし、胃液を吐いていたが、途中、うんともすんとも言わなくなって、死んじゃったかなと思って、揺すってみると、「あ、生きてるよ」と言っていた。
このときの会話で覚えているのは、妙子が「こういったところで寝てもいいかな」って言ってて「あ、いいんじゃない」と応えたこと
南米で遭難したすごい物語(「死のクレバス」ジョー・シンプソン著)よりもすごい話になっちゃいそうだな、と言っていたのも覚えている

●10月13日
・ぼくは妙子を置いて一人でベースキャンプに向かうことにした。というのは、ベースキャンプにいるコックに迎えに来てもらった方がいいだろうと思ったから。妙子と別れるときに写真を撮った。これが最後の写真になるかと思って記念に撮っておいた。
・そして、ぼくはベースキャンプにたどり着き、数時間後コックとリエゾンオフィサーが妙子を迎えに行って連れてきてくれた。
・ぼくたちはボロボロになった。トイレも食事も自分たちではできないくらい、疲れ果てていた。

ギャチュンカンでは、本当にいろんなことがありました。しかし、ぼくは、決して嫌な思い出でもないです。むしろいい登山だったなと思っています。というのは、ぼくはいつも自分の能力を最大限に発揮したいと常に思っているんです。そう言った意味ではこのギャチュンカンという山は、自分の知識体力技術すべて出し切って帰ってきたわけです。ですから、ぼくはこの山、登山をとてもいい登山だったと今でも思っています。

【ギャチュンカン以降】
・ネパールで1泊入院してすぐに日本の病院に入った。ネパールの病院で入院していたら下手すると手首から切られてしまうかもしれないと思ったから。
成田空港では、友人、両親が迎えに来ていた。友人には、もう終わったな、という感じで言っていた。その意味は、もう登れなくなったよ、という意味だった。

・指先は黒くミイラのようになり、痛くもかゆくもない。しかし、手術後は本当に痛かった。友人がベッドの周りを歩くだけで痛かったくらい。手術のことはここで説明すると、皆さんつらいでしょうから言わないですけど、とっても痛かったです。

・ぼくはこのとき、もう登山は終わりにしてもいいかな、と思っていた。25年以上ずっと厳しい登山を追求してきた。だからもうゆっくり休んでもいいだろうと思った。もう登山はやめてもいいだろうと思った。
・入院生活は4ヶ月以上だったのだが、2ヶ月過ぎたときからまた登りたいな、と思うようになった。それは、なぜと言われても、もう判らない。また、この足に力を入れて山を歩きたい。腕に力を入れて岩を登りたい、そう思った。これはもう衝動的なもの。だから、上手く説明できない。

・退院してから3ヶ月後、山を歩くようになった。最初は、足が出血したし、バランスが悪くてすぐ転んだ。しかし、やはり山を歩くのは格別なものがあった。血が出ても楽しかった
・岩も登るようになった。昔は握力が60kgくらいあったと思うが、指を失って20kgくらいに落ちた。それでも、岩を登ることは楽しかった。
・妙子も岩登りもするし、最近では氷も登っている。ぼくは5.12を登る。それもたいしたものだと自分で思うのだが、妙子はあの手で5.11を登る。驚異的なことだと思う。
・妙子は出術前から腹筋、背筋、階段登りとかを病院の中でよくやっていた。

・退院してから半年後、中国四川省に旅に行った。昔から興味のある土地だった。四川省の山には、誰も登っていない山がいくつもあった。いつの間にか、この山を登るんだったらこのルートからだな、とか、この山を登るんだったらこっちの方が安全だとか、そういう目で山を見ていた。クライミングの頭に変わっていた。
・四川省でたまたま長年あこがれていた大岩壁が目の前に現われた。ある写真集で、ずっとこの山いいな、と思っていたが、中国だとしか知らなかった。旅行していてたまたまその岩壁が目の前にあったのは、偶然でしかなかった。
・その中でもぼくが最も魅力的だと思ったのが、ポタラという大岩壁。このポタラを復活のための手掛かりにしようと思った。「垂直の記憶」のあとがきに、この四川省の岩山をいつかは登ってみたいと書いた。何年かかってもいいから登ってみたいと。
そしてこのポタラへ挑戦することにした。

【2004年ポタラ峰】
・ぼくは一人でポタラに挑戦するが、それ以外に女性3人が近くの山に挑戦することになった。メンバーは、山野井妙子、遠藤由加、柏澄子。

・ベースキャンプは3700m。富士山と同じくらいの高さ。花畑があって、雪山があって、馬が歩いていたりして、とてもいいところだった。取付までのアプローチが非常に長くて、途中ジャングルみたいな所を突破して行かなくてはならない。ナタを持って、ジャングルを突破していく。
・ベースキャンプを設置してから、すごく天気が悪くなった。登山期間が1ヶ月だったが、そのうち25日は雨だった。毎日毎日雨だった。だから、なかなかうまい具合に前進できなかった。
・天気が悪くていいこともある。キノコがやたら採れた。バケツいっぱいくらいのキノコが毎日採れた。最初は大丈夫かなと思ったが、食べ始めると大変おいしくて、毎日食べていた。一年分くらい食べたのではないかと思えるくらい、キノコをたくさん食べた。

・女性トリオが目指したのは、牛心山。こっちは、易しいし、メンバーも濃いので、比較的順調に進んでいったが、それでも天気が悪くて苦労したようだ。
結局、女性トリオは頂上近くまで行ったが、残念ながら天気が悪くて登り切ることはできなかった。

・ぼくは、指の神経や血管が、一度凍傷になって弱くなってしまったようだ。雨に濡れただけで軽い凍傷になり始めた。随分前のことだが、伊豆で釣りをしただけでも凍傷になったこともあった。

・結局、ポタラを登り切ることはできなかった。800m-900mの大岩壁だが、200mくらいしか登れなかった。しかし、ぼくはもう一度やってみようと思った。来年もう一度挑戦してみようと思った。これを登らないと、何かが始まらないような気がしたし、クライマーとしてまだ死んでいないのだ、ということを自分自身のために証明したかった。他人にアピールするためではなく、自分自身、まだ死んでいないのだ、と言うことを証明したかった。

【一回目のポタラ峰の後】
・中国での登山を終え、すぐにネパールに向かった。たまたま、知人がやっているネパールトレッキングに誘われたから。ぼくらはゲストとして参加した。最初は、ゲストとかガイドとかいうのは、ちょっとつらいかなと思っていた。しかし、行ってみると、結構楽しめる自分がいた。

・また、最近では、目の見えない人たちと山を歩いた。ぼくの登山クラブのOBの人が関わっていて、参加してくれないかと言われたから。最初は、何もサポートできないだろうと思っていて、実際、彼らに何かを与えることはできなかったが、ぼくらは楽しむことができた。そして、とてもいい刺激を受けた。また、こういう登山をしてもいいかな、と思っている。

・ネパールトレッキング後、すぐチベットに行き、ギャチュンカンに向かった。ギャチュンカンにぼくらは荷物を置いてきている。アイゼン、ピッケル、寝袋、テント、そう言ったものを回収しようと思ったていた。それらは道具としては使えないが、ゴミだから回収したいと思った。
・その回収の旅には、作家の沢木(耕太郎)さんも一緒に行った。彼は、山歩きをしたことがない。初めての山歩きが、ぼくらと行った富士山。2回目がギャチュンカン。薄い酸素の所にいると、普段自分が抑えている、わがままだったり、怒りっぽいところとかそういうものが抑えられなくなる。しかし、沢木さんは変わらなかった。元々いい人なのかもしれない(笑)。
・結局、ギャチュンカンでは、何も拾えなかった。氷河があまりにも動きすぎていたのか、全部埋まっていた。唯一拾えたのは、空き缶ひとつ。その空き缶も、ぼくらが登山する半年前に入ったアメリカチームのものだろうと思う。

・チベットから帰ってすぐトレーニング再開。自分の家の8畳間に人工壁を設置した。平屋なのだが、天井を取って、なるべく高さを出して人工壁を作った。一応大家さんに天井取っていいでしょうか、と聞いたら、あなた達には必要でしょうから、と言って、渋々承諾してくれた。
・指先の力をもっと付けないとポタラは登れないと思った。握力ももっと付けないと登れないと思った。雪山もたくさん行くようにした。昔のようには手足が強くなるとは思っていない。ただ、たくさん雪山に行くことによって、どんな装備がぼくに適しているのかを学んでいった。
・アイスクライミングも再開した。小指と薬指を失っているので、バイルを振ることはできても、氷に上手く突き刺さらない。剣道とかテニスと同じで、最後のインパクトを与えるのは、小指と薬指の力が大変重要だった。30回も40回も振っても刺さらなかった。最初は、初心者が登るような所もびくびくしながら登っていた。
・それが、3ヶ月後には、なんとか垂直の氷も登れるように戻ってきた。人間というのはたいしたものだと思う。努力すれば多少は報われます。皆さん、努力してください。

【2005年二度目のポタラ峰】
・6月25日に出発。前日、長年飼っていたクワガタを山に放した。もしかしたら帰ってこれないかもしれないなと思ったから。もう、世話はできないかもしれないと思ったから。
・ポタラという名前は、チベットのラサにポタラ宮と言う建物があるのだが、それに似ているかららしい。
・ベースキャンプで道具をチェック。荷物がものすごく重い。ハーケン50枚、カラビナ200枚、ロープ300m、食糧15kg、ポーターレッジ1台。全部で80kgくらいあった。
妙子は、今回は、ビデオ撮影を下からしていた。将来的にもしかしたらどこかのテレビで流れるかも。
・ぼくは小柄だが、結構重い荷物は担げる。長い間、真冬の富士山で強力という仕事をしていた。35kgくらいの荷物を担いで、10日に1回くらい登っていた。10年間で200回以上冬の富士山に登っていた。夏なら、80-90kgくらいの荷物を担いだことがある。

・凹角のルートを登った。クライマーにとっては、理にかなった理想的なルート。ただ、残念ながら全く太陽が当たらず、とても寒かった。登っているルートの20mくらい横は太陽が当たる。どれだけ身体を振れば、向こうにたどり着くか、と考えながら登っていた。でも、太陽は一秒たりとも当たらなかった
・取り付く前から石がよく落ちてきた。岩を登る前に石に当たって死ぬんじゃないかというほど石がよく落ちてきた。そのため、カッパのフードは取って、どこから飛んでくるのか音で聞き分けて判断しながら歩いた。
・壁の上の方には、たくさん変な岩が引っかかっていた。6畳分くらいの岩が、ぺたっとくっついていた。どうやってくっついているのか、上から見てもよく分からないくらい、ぺたっとくっついていて、大変気持ちが悪かった。

・登りはじめは60度くらい。最終的にはオーバーハングしてくる。
・登る道具はたくさんあるので、常に整理整頓することが大切。整理していないと、すぐ次に進めないし、危険。どこに何があるか、自分がどこのロープに結ばれているか、それをきちんと判断しなくては、とても危ない。
・ポーターレッジの中では、コンロとかコッヘルも釣り下げ式のものを使う。ただ、密閉されているので、一酸化炭素中毒になるんじゃないかと思うほどだった。

ものすごく天気が悪くて、毎日雨雪雨雪と降っていた。二日目には、寝袋も全部濡れて、ダウンジャケットも下着も靴下も全部濡れていた。本当にびしょびしょになっていた。夜中はそれらが凍るので、ほとんど寝られない。二日目からほとんど寝られなかった。ときどきうとうとすると、決まって同じ夢を見た。近くに温泉があるんだけど、なぜかたどり着けない、という夢。
・四日目からは、日本語のラジオ放送が聞こえるようになった。もちろん、ラジオは持っていないので幻聴。それだけ過酷な状況だった。
・毎日13時間以上行動していた。疲れ切っていたけれど、登頂をあきらめることはできなかった。
・七日目で頂上稜線に抜けた。その日も吹雪でやはり何も見えなかった。

・格別強い感動も歓びもなかった。ただひとつ何かが終わったなと感じただけだった。ひとつのステップを踏んだ、とそれだけだった。

ポタラを二年がかりで成功させた。
友人はこれで復活だねってよく言ってくるが、全然復活ではない。
実際、昔が10の力だったら、まだ4くらいの力しか出ていない。
しかし、今でも少しは向上している。
その向上するチャンスが残されている限りは、ぼくはまだ上を目指したいと思っている。
確かに、年齢的なこととか、手足のハンディもあるが、まだ上に向かうチャンスは残されているから、頑張りたいと思っている。


たぶん、ぼくは本当に一生登っていくと思います。
将来、難しい登山ができなくなって、ハイキングしかできなくなるときが来ると思います。それでもたぶん登っていると思います。こんな素晴らしい行為をやめることはできませんし、また、本当に、ぼくは登るために生きているような人間ですから、やめることはないでしょう。登山は、ぼくにとって、そうですね……、まあ、いいです。……素晴らしいです。
みなさん、自分のやりたいこと、ごまかさず、一生やってください。それだけです。



●質問コーナー
◆奥さんにも一言お願いします。
妙子:私も同じようなことしかやってないですけど、ずっと岩登りとか山登りを続けていくと思う。

◆お二人の出会いは?
妙子:ブロード・ピークに8人で行ったときに初めて一緒に行った。それまで、お互いに長く東京にいて、山登りをしていたけど、知らなかった。そのとき、初めて一緒に行った。

◆(ギャチュンカンで)宙づりになったときはどんな気持ちだった?
妙子:落ちていくときもここで死ぬかな、と思ったけど、止まって、ロープにぶら下がって、上を見たらロープが半分切れかかっていた。
次の瞬間に切れて死ぬかな、と思った。
山野井が降りてきてくれるのを待つしかなかった。
とても長かった。
でも、気持ちというか、感情的になることはなかった。

◆当然のごとく、山野井が来てくれると思った?
妙子:そうですね。
どっちにしても、下に向かわないと帰れないし。
ただ、私も頭をぶつけたせいかもしれないが、そのとき、目が見えていなかった。ここまで降りてきてくれたら、私は目が見えていなかったので、全部やってもらえると思っていた。
山野井が私の所に来たら、目が見えないって言って、「えっ」とか思った。
すべてやってもらえると思ったのが、私がやらないといけない状態だった。そのときだけ、ちょっとがっくりきたけど、あとは前向きにいろいろやった。

◆ベースキャンプに着いたときの気持ちは?
妙子:とにかく今までで一番へとへとだだったので、足を一歩前に出すのが、すごくつらかった。最後は迎えに来てもらってたどり着いた。これで歩かなくてすむと思って嬉しかった。

◆沢木さんの「凍」のなかで、どんなときでもパニックにならない人だと描いてあったのだが、それは生まれつきなのか、いろんな所に登るうちにそうなったのか。
妙子:山を始めたときから度胸がありすぎる、と言われていた。怖いもの知らずというか。最初からそうでした。
あまり昔のことを覚えていないので、子どもの時からかどうかは判りません。

司会者:山野井さんへの質問は?
……(沈黙)。
(会場爆笑)

◆(手話による質問)壁では、トイレはどうしていたのか。
山野井:(実演)座ったら、大便とおしっこは、結構、同時に出てしまう。
大便を出したくて、壁を向いて座ると、おしっこも一緒に出てしまって、ポーターレッジが濡れてしまう。まず、さきにおしっこだけして、大便をする。非常に筋肉の使い方が難しい。

◆(手話による質問)寒さはどうするのか。
山野井:寒さは我慢するしかない。ビタミンEを飲んだり、ニンニクを食べたりするけど、基本的には耐えるしかない。寒いのも山のひとつと思った方がいい。
ぼくはものすごく寒さに強かったが、今は弱いので、ギャップが大きすぎる。K2は素手で登った。今は釣りしただけで凍傷になってしまう。

◆普段はどういう生活をしている?
山野井:仕事らしい仕事はしていない。隣の80歳くらいのおじいさんと同じような感じ。朝起きて、今日何をしようかと考える。家がすごくぼろかったときは、直しているのが楽しかったが、最近それも完成してしまった。自転車乗りに行ったり、週3日くらいは、近くの岩場に登りに行ったりする。ずっと山の資料を見て、行きたいなとぼーっと眺めている。
皆さんが、「垂直の記憶」を買ってくれれば、ぼくがぼーっとできる時間が増えることになっている。

◆単独登攀の方法は?
山野井:ひとつは全くロープを使わない方法。これは単純だし、気持ちがいい。ヒマラヤの高い氷壁とか岩壁とかはロープを使わずに行くのが一番気持ちいい。
ロープを使うシステムは……、言葉で説明するのが難しい。
いろんな方法があるので、ひと言では言えない。

◆初めて高所に行く沢木さんにアドバイスしたことは?
山野井:たくさん水分を摂るように。呼吸と足の運びを合わせるように。状態が悪いときに隠さないように。という三点。
ベースキャンプでは、結構へろへろだった。モモヒキひとつ履くのにも「はーっ」「はーっ」と言っていた。このときのゴミ回収の旅にテレビ局が着いてくる、という話もあったが、沢木さんが、自分のそういう姿を見せるのはちょっとつらいから、と断っていた。
これは断って良かったでしょう。

◆呼吸と足の運びについてもう少し詳しく
山野井:一歩踏み出したら吐く。一歩踏み出したら吐く。吸うよりも吐くことを意識する。

◆山頂に立ったときに何を思うか。
山野井:頂上に立ったときは、今だと、あまり感動しないし、喜ばない。それは、降りるために力を残しておきたいから。集中がなくなるのが怖い。昔から、あまり喜んではいけない、というのが身についている。頂上についても「着いたな」という確認だけ。下に戻ってきてから山を眺めて、やったな、と思うだけ。特別、感情に変化はない。

◆成功率5割といったが、断念するときの判断は?
山野井:いろんな要素があるが、ぱっと見て雪崩の危険性があったら、お金使っててもやめる。無謀なように見えて、非常にぼくは慎重。妙子よりは慎重。
ただ、残念ながら、頂上近くになると、あきらめられない性格。
日本の岩場でも、もうやめた方がいいんじゃないか、と周りが言うときでも、最後の10m-20mになったら、(初登頂というわけではなくても)死んでもいいからと思って、あきらめられない。
だから、ぼくが死ぬときはそういうパターンでしょう。まあ仕方がないです。


以上。

<講演を聴いて>
今回が、ポタラ峰登頂後、(日本山岳会100周年記念パーティを除いて)初めての講演会。
ポタラ峰の登頂の記録については、「山と溪谷」2005年10月号に山野井自身が手記を載せている。(ちなみに、視覚障害者の人との山行は、「山と溪谷」11月号に掲載)

ギャチュンカン以降、ポタラ峰へ向かう過程の部分が、今回の聞き所だろう。
しかし、登ってきた記録が増えるほど、話すべき内容が多くなってしまうのは仕方がないのか。ギャチュンカン以前の部分は、かなり駆け足の説明となり、ポイントに絞った話となっている。過去の講演会の聴講メモを読み返すと、その内容の差がよく判る。それもあって、(彼のプロフィールを知ってもらうために)事前に「情熱大陸」の映像を見せていたのかもしれない。

ポタラ峰の登攀についてが一番聞きたいところであったのだが、ギャチュンカンからポタラまで、話の方向があっちこっちに飛んで、少し散漫な感じがした。クライミングについても、ポタラよりもギャチュンカンの方が詳しく説明していた。
ギャチュンカンがもてはやされるのは、それが「極限からの生還」だったからだろうと思う。登頂して、何事もなく無事下山していたら、そこまで騒がれることはなかったかもしれない。私自身も、ギャチュンカンの(下山ではなく)登攀そのものの困難性は、10分の1も理解できていないと思う。
たぶん、それは、言葉で説明されても、(山をやらない人も対象にしている講演会では)伝わらないので、あえて触れないのだろう。ポタラの話も、登攀自体は意外にあっさり終わってしまった。
ポタラは、結局、壁そのものが本当に難しいのか、山野井に手足のハンディがあったから難しかったのか、私には判らなかった。指を失い、しかも連日、雨の中での登攀は、相当困難であろうとは思う。しかし、山野井自身も言っていたが、ギャチュンカン以前を10としたら、4しか力を出せないなかでの登攀だったのも確かであるらしい。

「山と溪谷」誌の手記は、わりと面白く読めたのだが、あれをそのまま説明すると、おそらく、技術的な話や専門用語が多くなって、一般的には判りにくいものとなっただろう。そうは言っても、花の話(このメモでは省略した)や女性トリオの牛心山の話は(ある意味)どうでもいいと思う。
今回の大きなテーマだった(と思われる)、ギャチュンカン以降の復活の軌跡を、一連の流れとして見ることができたのは、良かったと思うが、少し物足りなさも感じた。

むしろ個人的に楽しめたのは、山野井氏の講演終了後、質問コーナーで妙子さんの話を聞けたこと。
沢木耕太郎が「凍」で妙子さんをフィーチャーしているのも判る気がした。ちょっと話を聞いただけだが、なんだかすごい人だと思った。
あの手で5.11を登ったり、アイスクライミングをしたりするというのは、全く信じられない。

山野井日記の10月17日付の記述を読むと、
>最近、雑誌に出たり、人前で話したりする機会がやたら多くなったような気がする。
>何か偉そうで自分自身でも嫌気をさすことがある。
>「できればクライミングだけをしていたい」
>このような複雑な心境になったのも次の目標が明確に見えていないからだろう。
>では、このような仕事はすべて断れば良いか。
>実際はあまりにも暇な生活が続いているときには、知らない人と話すことは良い刺激になるのも事実だ。
>どの仕事を受け、どれを断るか、これが難しいところだろう。

とある。
クライミングに集中したい、という気持ちも分かりますが、たまにはまた講演会をやってくれると嬉しいです。



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