講演会聴講メモ

エルク20周年記念イベント
山野井泰史スライド講演会

「垂直の記憶」
(2004年5月20日)静岡県立文学館講堂にて


<注意>

(1)下記のメモは、2004年5月20日に行われた「エルク20周年記念イベント 山野井泰史スライド講演会『垂直の記憶』」を元に構成されています。
(2)完全な議事録ではなく、一部を除き、あくまで講演を聴いた際のメモですので、山野井氏の発した言葉そのものが記してあるわけではありません。
(3)私の聞き違い、勘違い、無知などにより、山野井氏の意図する内容と異なるものになっている可能性もあります。
(4)私自身は主催者であるエルクとは全く関係ないため、これは公式の記録ではありません。
(5)太字部分は、私が気になった(気に入った)発言で、山野井氏が強調した部分と言うことではありません。
(6)その他、下記の文章に関する文責はすべて神谷にあります。 何か内容などに問題などある場合は対処しますので、こちらまでご連絡ください。




車で東京を出発したところ、途中、渋滞につかまり講演開始に20分ほど遅刻してしまい、講堂に入ったときには、既にトール西壁の話をしていました。
そのため、以下のメモも前半20分間の部分がありませんのでご了承ください。

なお、ちょうど1年前の「労山ヤングクライマーズフォーラムIV 山野井泰史氏を迎えて『挑戦の軌跡』」の聴講メモと構成的にはほぼ同じです。ただ、微妙なニュアンスや言い回しが変わっていたりするので、あえて、同内容の部分も記載しています。また、距離、時間などの数字に関して、1年前の講演と異なっている部分もありますが、聞いたとおりのまま記載してあります。比較してみるのも面白いかもしれません。ちなみに今回のメモのほうが、わりと詳しくなっています。


【1988年バフィン島・トール西壁】
・このときすごく緊張した。何日かければ登れるか分からなかったし、岩壁の中で病気になったり怪我をしても救助体制がないので、助からないと思ったからだ。
・5日目、ポーターレッジで泊まった夜、台風並みの風が来た。ブランコのようにゆれて、ハーケンが抜けるんじゃないかとビクビクしていた。そのとき、重要な食糧袋を(全部)落としてしまった。そのため、残り3日間、何も食べずに行動することになった。
・この当時、とても貧乏だった。今でも裕福ではないが(笑)。例えば、手袋は一つしか持っていなかった。また、目出帽も持っていなかった。高校時代に怪我をして前歯を失っているが、歯を入れるお金もなかった。
・8日間かけて成功。自分にとって最初の僻地での大岩壁を成功させた山。大きな自信になった。

【1989年、90年パタゴニア・フィッツロイ】

・すでにパタゴニアはポピュラーになっていた。そこで、あえて厳冬期に一人で向かった。
・ベースキャンプまで馬で行ったが、馬方の人が、僕の食糧を見て貧しいのだと思ったらしい。肉は持っているか、と聞かれ、肉は何もない、と答えると、(写真の)一番後ろの馬をばらして肉を半分くらいくれた。ただ、(荷役に)使われていた馬だったので、硬くて食べられたものではなかった。味はまあまあだったが、噛み切れなかった。
・パタゴニアは天気が悪かった。毎日、雪、雨、強風だった。
・小屋で40日間一人で待機した。ここでは本当に孤独だった。やることと言えば、焚き火を眺めていることくらいだった。
・冬のパタゴニアは気象条件が厳しい。風速30mくらい。気温-30℃くらい。日照時間もわずか。すべてがクライマーにとっては不利だが、やりがいのある土地。
・僕にとっては技術的にはそれほど難しくなかった。ただ、ものすごい強風なので、ロープがすぐ風で引っ掛かってイライライライラしていた。
・結局、89年は登りきれなかった。90年再度トレーニングを繰り返して成功した。
ここでは技術的なことより、精神的なことを学んだ。孤独とは何ぞや、とか。よく「都会の孤独」とか言うけれど、そんなのはどうってことない。山の中で一人でいて、なおかつ登ったからと言って誰かにほめられるわけではないのに挑戦する、やっぱり(このときは)孤独だった。これ以降もヒマラヤでいろんな単独登攀をするのだが、ここ以上の孤独を感じた山はなかった。

【1991年ブロード・ピーク】
・僕はヒマラヤも本当は一人で登りたかった。しかし、この当時、(ヒマラヤ登山は)手続きが複雑だった。また高山病に関する知識も全く持っていなかった。それで、初めて大きなチームに参加させてもらった。最初で最後の大きなチームだった。
・(パキスタンのポーターの写真を見ながら)僕はどんな国に行っても誰かと仲良くなれる。ポーターたちと会話は成立しない。でも、なんとなくうまくいく。山に登るだけではなく、向こうの文化に触れるのも重要だと思う。ポーターと一緒に寝たりもする。
・僕はどんな国に行っても何でも食べられる。パキスタンだと、チャパティに油ギトギトのカレー。彼らは一年中それを食べている。僕もそれを一年続けてもたぶん大丈夫。別に日本食は恋しくならないだろう。これは僕にとって(登山よりも)得意な分野。
・登山方法としては極地法というオーソドックスな方法で、何度も同じところを行ったり来たりした。飽きる方法ではあるが、ヒマラヤのスケール、大きさを理解していない初心者とか、高山病に対する知識がない人にとっては悪くない方法だと思う。最終的にロープなどを回収してゴミにしなければ、悪くないと僕は思う。
・8人のメンバーがいて、高所の経験は僕が一番なく、モンブランくらいしか登ったことがなかった。でも、メンバーの中で、僕が一番強かった。それは、僕が一生懸命トレーニングしたからなのか、最近言われている遺伝的なものなのかは分からない。
・8000m付近。酸素ボンベを使用していないので、やっぱり動きは鈍くなる。易しい足し算引き算はこういうところではできない。この場で名前を言えと言われれば答えられるだろうが、住所電話番号はまったく答えられないだろう。靴紐を結ばなきゃと思ってから結ぶまで五分かかったりする。反応が非常に鈍くなる世界。その中でも生きて帰ってくるのはなかなか大変。
・はじめてのヒマラヤで、酸素なしで登れたのはラッキーだったと思う。山頂では、これからは一人でシンプルにもっと難しいところをチャレンジしようと思った。

【1994年チョー・オユー南西壁】
・高度順化のために一般ルートを何度も往復した。7000m付近まで2-3回登った。ここまで、(嫌な言い方になるが)ハイキングみたいな気分でこれないと、目標の南西壁は無理だろうと思っていた。
・どうやって、体が薄い酸素に慣れたかを判断するのは難しい。いまでは、血液中の酸素飽和濃度を計る機械があるが、僕はあんまり信用しない。その辺をジョギングしてみてどれくらい息が切れるかを確かめたり、尿の色を見て自分がどれだけ順化したかを確かめる。
・ベースキャンプを出るとき、本当に緊張した。こういう山では絶対少しは高山病になるもの。しかし、ちょっと高山病になったからといって帰ってきたら登ることはできない。強い高山病、脳浮腫とか肺水腫にかかったら帰って来れない。その辺の判断が難しい。
・単独登攀のもっとも問題となるのは氷河で、僕はこういうところをジャンプして超えて行かなければならない。普通はロープを組んでいくのだが、単独だと確保してくれる人がいない。ジャンプして、落ちれば助からない。優秀な単独登攀者もよくこういうところで亡くなっている。最も注意すべきところ。自分の技術だけではどうにもならない。
・僕は夜8時に出発した。なぜ夜か。冷え込んだほうが、雪は硬く締まって、もぐらないので体力を温存できる。夜中登って日中寝たほうが、暖かいので寝袋も小さくてすむ。その分軽量化になる。景色は見れないが。
・7300m付近。変な感覚があった。常に誰かが後ろから来ているような感覚。別に僕はお化けとか霊とか信じないほうだが、確かに感じた。ラッセルしていると、なんで後ろのやつは交代してくれないのかな、と思った。この後テントを立てるときも、なんでポールを押さえてくれないのかな、と思った。ただ、ふと気がつくとやっぱりいない。不思議ではなかった。変な感覚。
・7500mで一泊だけした。こういうところでは、寝ることはあまり考えない。体中疲れを取るためにマッサージをしたり、あるいは雪を融かして水をたくさん飲んだりする。僕は、6リットルくらいの水を飲もうと考えていた。そうしないとこういう高度では血液がドロドロになって高山病とか凍傷になりやすい。ただ、6リットルの水を作るのはすごく大変な作業。しかし5-6時間かけて相当の水を飲んだ。そうしないと登れない。
・ただ、高所の影響で目がやられて赤くなってしまった。8000m付近では、何度も目が見えなくなった。そのときは深呼吸をして、視力を回復させていた。
・9月22日頂上に立つことに成功。ひとつの大きな夢が実現した瞬間でもある。
・ベースキャンプを出発して降りてくるまで、75-6時間。その間に10kgやせた。相当身体に負担がかかったのだと思う。医学的なことは分からないが、脳細胞も相当死んだと思う。もともと多くないから死んでもいいけど(笑)。登りたい気持ち、登ったあと感動できる脳細胞が残っていれば問題ない。

【1995年レディース・フィンガー南西壁】
・3人のメンバーで行った。
・(後ろから来るメンバーを取った写真を見ながら)後ろから来るメンバーも気が楽ではない。ロープが岩角にこすれていないか、ハーケンをきちんと打ってくれているか、気になるけど、気にしないことが大事。気にすると登れない。
・大岩壁は荷物が重い。雪がないので、水作りができない。最初から水を運んでいく。僕らは60リットルの水を運んだ。それだけで60kg。ポーターレッジが6-7kg。全部で120-130kgくらいの荷物があった。
・食糧計画を僕が作ったのだが、とても少なかった。12日間岩壁の中にいたが、朝ビスケット5枚。昼チョコバー1本。夜茶碗1杯くらいのおかゆ。それだけで12日間過ごした。すごくおなかが空いたので、僕はクライミングに使う白い粉、炭酸マグネシウムを良く食べていた。そんなに害じゃないと思う。
・ルート名は「ラマダン」とした。イスラムで断食の意味。

【1996年マカルー西壁】
・当時、ヒマラヤ最大の課題と言われていた。標高7800-8400mの最後の最後に垂直からオーバーハングした壁がある。そういうのはなかなか登れない。
・このときも一人で行ったが、途中落石にも当たり、登りきることができなかった。
・これは、敗退の要因といっては何だが、テレビチームがついていた。僕一人登るのに5人くらいのスタッフがベースキャンプからカメラでのぞいていた。彼らからお金をもらっているわけではないので、気にしなくても良いのだが、やっぱり集中できなかった。これ以降、本気で何かをやりたいときには、そういう人は連れて行かないほうがいいな、と思った。

【1998年マナスル北西壁】
・山を見た瞬間、かなり危ないと思った。雪崩の危険性がすごくあると思った。たいてい、山では奥さんと一緒に行ったら僕が判断することが多いが、僕は行こうと決めた。夫婦二人でこのとき300万円くらい使っていた。(それは大変危険な考えだが)登らないともったいないと思った。あと、この氷壁が未登だったので、野心みたいなものもあった。
・夜1時。新月で何も見えなかったが、悪い予感がしたので、ロープは組んでいた。グアーっという音がして、もう(雪崩が)来ちゃったな、と感じた。ただ、どこから来てるのかは分からなかった。2-3秒後、吹き飛ばされて、何度も何度も氷の滝を落ちて行った。300-400mくらい流された。最終的に気がついたときは、縦だか横だか分からないが、身動きできないで雪の中に埋まっていた。肺、のど、口の中、全部雪が詰まっていた。ほとんど窒息する状態だった。たまたま奥さんが雪に埋まっていなくて、掘り出してくれたから助かったが、本当にこのときは死にそうだった。
・このマナスルの失敗は悪い例。見た瞬間にやめればよかった。ただお金を使ったから登らなくちゃいけないとか、野心みたいなものとか、悪い例だった。僕の場合は、非常にモチベーションが高すぎるので、こういう例もよくある。

【日本の山・生活】
・家の近くにボルダリングを楽しめるところがある。時々一人で行くが、ボーンと落ちて、背中を打ってすごく苦しい。こういうところで、俺死ぬんじゃないか、と思うときもある。
・仕事はどうしているのか良く聞かれる。今は大して仕事をしていないけど。ついこの間まで10年間くらい富士山の強力をやっていた。測候所に食料品を上げていた。冬の間10年間で二百何十回登っていた。
・のんびり暮している。友人の中にはお金をためるために質素な生活をしているのではないかと言う人もいるが、そうではない。こういう生活が好きなだけ。あまり裕福ではない。
皆さん、本を買ってください(笑)。少し、少ーし、我が家の家計が潤うかな。

【2000年K2】
・すごく独立していてきれい。憧れの山。いつか行ってみたいと思っていた。風が強くて、岩がごつごつしている。エベレストよりも全然難しい山。
・5500mのベースキャンプに着いた日は天気が良かったが、その後ずっと雨、雪、雨、雪だった。世界的な異常なのか、5500mで雨が降ることは本来ないのだが。ひどかった。
・ポーランドのクルティカとK2東面にチャレンジするつもりだった。(写真を見ながら)彼が今何をしているかと言うと、上着の余分な部分をカッターで切っているところ。1gでも軽くしようとしている。1gでも軽いほうが身体は良く動く。精神的なものもあるが。僕もロゴマークとか切っている。
・クルティカは5年目のK2だったが、これ以上いても晴れることはないだろうと、ポーランドに帰って行った。彼にとって5度目のK2も敗退となった。
・僕としてはあきらめることはできなかった。K2はすごくあこがれていた。それで、南南東稜から一人でチャレンジすることにした。
・出発のとき、昔ほど緊張していなかった。何百回も単独登攀を成功させていたし、今では高山病に対する知識も豊富になっている。どこまでは大丈夫かという判断ができるようになっていた。程よい緊張の中の出発。
・テントは1kgくらい。寝袋も600gくらい。トランシーバー、チタンクッカーなど全部で5-6kgの荷物だった。
・ただ、南のほうから雲が来ていたので、焦らなくてはならない状況だった。K2の場合、南から雲が来ると、たいてい天気は2-3日で崩れる。だから、早く登らなくては、と思っていた。人間は普通酸素ボンベを使わずに8000mより上に長くはいられない。普通2-3日で細胞とか脳がやられる。
・荷物は途中でどんどん置いていった。それを後で回収して戻った。
・8000mを越えると時間の感覚がほとんどなくなる。自分の中では5分くらいしか経っていないはずなのに、すでに2時間くらい経っているとか。
・8200mくらいのボトルネックのトラバース。登りはうまく行ったが、下りでスリップ。滑落停止で止めたが、3000mの岩壁が落ちているところまであと5mのところでやっと止まった。本当に間一髪で、もう少しで3000mのダイビングができるところだった。
・僕はずっと素手で活動していた。昔は寒さに強かった。-20℃以下のはずだが、あまり寒さは感じなかった。
・ベースキャンプから48時間後。丸2日でK2山頂に立つ。
・やはり酸欠で頭はやられていたようだ。トランシーバーでベースキャンプと交信したとき、向こうの人はいろんな質問をしてくるが、僕の答えはいつも「今日は良い天気だ」としか言わなかったらしい。そうとう頭がいかれていたようだ。でも、登って降りると言う活動だけは長年の登山経験でできる。
・ベースキャンプに着いてすごく疲れていた。3日くらい食べられず。興奮していてか、ほとんど熟睡できなかった。高所登山は、身体にいいことはない。

【2002年ギャチュンカン】
・遠征前にアメリカワイオミング州のグランドティートンでトレーニングした。4000mくらいのところで岩を登ったりハイキングをしたり。久しぶりに難しいフリークライミングもした。13aくらい登ったか。今は、悲しいけど、もう登れないだろう。手足は10本そろっていてナンボだから。アメリカのキャンプ生活はヒマラヤと違ってのんびりしていて良い。
・9月。チベットに入った。チベットは3回目。チョー・オユー、ガウリシャンカール、そしてギャチュンカン。
・(ヤク使いの女の子の写真)彼女は今までずっと学校に行っていたが、最近お父さんが山の仕事で亡くなって、自分がヤク使いの仕事をしなければならなくなったらしい。僕らはすごくたくさんのお金を使って一種の遊びをしている。彼女は一日働いてもたぶん500-600円のお金にしかならない。仕方ないことかな、と思うが、いろいろ考えさせられた。チョコレートをあげたが、あまり好きではないらしい。食べたことがないから甘いものはおいしくないと言っていた。ツァンパが一番好きだといっていた。
・キャラバン3日でベースキャンプ到着。残ったのは僕ら二人とネパール人コック一人の三人だけ。
・目標のギャチュンカンまでがまだ8km以上あってすごく遠い。これはヒマラヤ登山の上ではすごく不利だが、もうヤクが前進できなかったので仕方がない。
●10月5日出発。コックには4-5日で戻ってくると言っておいた。しかし、実際にはその倍くらいかかって降りてくることになる。コックが(僕たちが)死んだと思っていたのも仕方ないことだと思う。
・夕方になったら雲が発生していたが、それほど気にはしていなかった。毎日夕方になると雲は発生して、数時間すると消えていた。だから、あきらめるような天候ではないと僕はこのとき思っていた。ただ、気圧計の針が少しずつ下りていたのは気になっていた。
●6日朝3時出発。60-70度くらいのところをロープをつけずに登っていった。このとき僕は右足の感覚がなかった。こんなことは今までなかった。本来なら、靴を脱いでマッサージすればよかったのだが、そういう場所が全くなかった。だから登り続けるしかなかった。
・夕方雪を削ってテントを張った。しかし、40cmくらいしか削れなかった。テントを無理矢理張ったが、二人とも折り重なるようにして寝るしかなかった。ここでも靴を脱いでマッサージすることができなかった。これが致命的だった。なぜ右足だけが冷たくなったのかは分からない。
・この日から雲がたくさん発生するようになった。
●7日朝は天気よし。荷物は5-6kg。雪を登っているように見えるが、下10cmは全部岩ですごく登りづらい。同じところを降りるのかと思うと気分が滅入った。スピードは上がっていた。
・7500mでテントを張る。唯一しっかりテントが張れたところ。ただ、奥さんは顔がずいぶんむくみ始めていた。このときから(高山の影響か)食糧が食べられなくなっていた。ただ、(彼女も)頂上はあきらめていなかった。気持ちの中では。
・僕は、身体のコンディションは良かった。このとき初めて靴を脱ぐことができた。最初、プラスチックブーツを脱ごうとしたら既にガチガチに凍っていた。靴を脱いだら、靴下もバリバリに凍っていた。靴下を脱いだら、もう(足の指は)紫に変色していた。ただ、まだ切るほどの凍傷じゃないだろうと思い、頂上アタックを決めた。残り400mだし、あきらめられなかった。でも、多少は指を切る覚悟はあった。
●8日朝起きたら天候悪化していた。雪がかなり降っていた。荷物をほとんど置いてアタックした。しかし、奥さんは着いて来れず、1時間したら疲れ果ててキャンプに戻ってしまった。彼女がカメラを持っていて、本当はカメラが欲しかったのだが、取りに行くこともできなかった。僕はそのあと一人でひたすら登っていった。昼過ぎ、一人で頂上に立った。状況はすごく悪くなっていた。どんどんどんどん風は強まって雪も降り出していた。頂上には1分ほどいてすぐ下山を開始した。
●9日二人で降りようと思ったが、すごい吹雪だった。ただ、もうここには滞在できない。7500mに何日もいたら身体がおかしくなってしまう。降りるしか選択の余地はない。吹雪の中を降りていったが、結局その日は7200mまで。わずか300mしか降りられなかった。その日の寝場所は70度くらいの所。雪を削っても10cmくらいが限度。ちょっとお尻を引っ掛けてロープを身体に固定して一晩足をぶらぶらさせながら寝た。その日は頻繁に雪崩が我々の上を通過していくような感じで、悲惨だった。もちろん、食べ物が食べられるような状況でもなかった。
●10日ロープを使ってゆっくり降りて行った。しかし7000mくらいで、巨大な雪崩が発生して奥さんが吹き飛ばされた。僕はハーケンで身体を結び付けていたので何とかこらえたが、彼女は50m下で宙吊りになっていた。奥さんのところに戻らなくちゃいけないのだが、多分雪崩の衝撃で、目が全く見えなくなっていた。手をかざしても何も見えなくなった。それでも僕は降りなくてはまずいと思った。普通ハーケンを打ちながら降りていくのだが、岩の割れ目が見えない。それで仕方なく、素手で手探りで岩の割れ目を探すしかないと思い、凍傷になるのは覚悟して、冷静にどの指が普段使わないかな、と考えた。左手の小指ならあまり使わないだろうと思い、左手の小指で岩肌を一時間くらい探って、やっと一本ハーケンを打った。少し降りたら、次は薬指でやって、と、5-6時間かけて下降した。その日は二人ともロープでブランコみたいなのを作って宙吊りで寝た。
●11日同じような感じで降りたが、二人とも手足凍傷でギリギリの状態だった。氷河上に降り立ち、やっとロープをつけなくても落っこちる場所ではないところにたどり着いた。しかし、彼女はかなり弱っていた。この時点で彼女は3-4日何も食べていない。手も凍傷で真っ黒になっていた。かなり弱っていたと思う。僕も手はもう真っ黒だった。僕も3日食べていない。水分も全く取っていない。非常に悪い状況。
・僕は幻覚をしょっちゅう見た。それがすごくつらかった。外国人が通過するのに英語で答えなくちゃいけないと思うのがつらかった。普段もうまくしゃべれないのに、こんな疲れた状況で何で英語でしゃべらなくちゃいけないのかと思った。
・氷河上からベースキャンプまで本来なら5時間で帰れる距離。しかし、雪もすごく降っていたし、我々は疲れ果てていた。特に奥さんは、2-3歩あるいては倒れ、2-3歩あるいては胃液を吐くようで、ゆっくりしか歩けなかった。今日ベースキャンプに帰れなかったら、死ぬんじゃないかな、と思っていた。だから、寝袋から何から、ゴミになっちゃうけど、捨てて空身でここから帰るようにした。しかし、この日もベースキャンプにたどり着けなかった。そして、寝袋もなしでこの夜は過ごした。岩の割れ目で二人で抱き合って寝ていたが、僕もこのときずっと震えていた。胃液みたいなものを吐いていたし、涙がボロボロ出ていた。奥さんはときどき死んじゃったんじゃないかと思うくらい息もしなくなった。揺らすとなんとなく生きているという感じだった。ただ、奥さんが「こういったところは寝ていいのかね」と言って、「いや、寝ていいと思うけどね」という会話をしたのは覚えている。
●12日何とかこの晩も耐え切って朝を迎えたが、彼女はほとんど歩くことはできなかった。それで僕一人がベースキャンプに行ってネパール人コックに迎えに来てもらおうと思っていた。彼女と別れて出発するときに写真を撮った。最後の写真かと思って。もうヨレヨレだった。
・僕はここから数時間かけてベースキャンプにたどり着いた。奥さんもコックに連れられて数時間後帰ってくることができた。もう、二人とも凍傷で手足真っ黒だった。

・その後、僕らは国境を越えてネパールのカトマンドゥへ戻り、翌日には成田空港に戻って即入院となった。

(これ以降は、山野井氏の言葉をほぼそのまま記します。)
 入院中、結構、友人からはいろんなことを言われました。この山を選んだこと自体間違いだったのではないかと言った友人もいましたが、僕としては、そんなに、選んだことを失敗だったとは思ってませんし、いい登山だったと思ってます。
 僕はいつもこう、自分の能力を最大限に引き出したいと思っています。自分の能力がどこまでにあるのか、どこまであるのかっていうのを知りたいと思っています。そういった意味においては僕は力を出し切りました。ですから、むしろいい登山だったなあと、いい山だったなあと思っています。
 長く入院したんですけども、最初のひと月くらいは、もう、山をやめていいかなと思いました。僕はもう25年にわたって、休みなく登り続けてきました。まあ、もうゆっくりしてもいいかな、と本当に思いました。やったとしてもハイキングぐらいでいいんじゃないかと思うようになったんですけども、まあこれは本当に理由はないんですけども、ひと月ふた月くらいしたときですかね、ああやっぱり戻りたいなと思うようになったんですね。あの岩と雪と氷と……。もう、それは……。理由は……。もう僕には、よくいろんな人から聞かれるんですけど、もう理由はないですね。単純に戻りたい、単純に登りたい、と思う。そして、登っていこうと決めました。
 僕は、たぶん、昔のようには登れません。これは、運動する人間として分かる。これはもう致命的です。足の指も手の指も失うって言うのは。クライマーとして致命的ですね。しかし、まあ、僕は、たぶん一生登っていこうと思っています。こんな素晴らしい行為は、僕の中では、ありませんから。やめようとは思いません。

 これで、僕の話、終わりますけども……。
 この中で登っている方もいらっしゃるでしょうけども、一生続けてもらえたらうれしいなと思います。高難度とかそういうの追求せずとも一生続けて欲しいなと思います。
 これで僕の話終わりにしたいと思います。



●質問コーナー
◆奥さんと山はどっちが好きですか。
それは、究極の選択じゃないですね。山です(きっぱり)。

ちなみに、最初、山野井氏は「奥さんとどっちが強いか」という質問と勘違いされたらしく、以下のように答えていた。
「僕は、ものすごくトレーニングして今を維持している。奥さんは、もとが農家だったのだが、何もトレーニングしなくても強い。だから、基本的には奥さんのほうが強いが、見栄もあるし、負けないようにしている。」

◆普段のトレーニングは?
以前は林道を走ったり、岩場が家から10分くらいのところにあるので、週3日くらい登っていた。あと、富士山の強力はいいトレーニングだった。30kgくらい担いで、月3-4回登っていた。あの当時、どんな山でも岩場でも人に抜かされた記憶はなかった。今は、どんどんハイカーの人たちに抜かされてしまうけど。そのほか、ストレッチしたり、柔軟したり、特別なことはしていない。

◆今の山野井さんの目標は?
8月に中国の岩山に行こうと思っている。今の感じだと登れないと思うけど。昔は、今年はこれをやるぞ、と決めたら、せっぱ詰った感じで、これをこなさなきゃ次に繋がらないみたいな感じで常に挑戦していた。どっかで追い込まれたような感じで登っていた。しかし、今年は、登れなかったら登れなかったでいいかな、と思っているので気は楽。だめだったら来年。昔は焦って2年先のことまで考えていた。これを登れなかったら、おれのクライミング人生終わっちゃうぞ、みたいにせっぱ詰まって登っていた。

最後に、司会の方が著書「垂直の記憶」について触れて。
山野井:みんな、3冊ずつくらい買っていってください(笑)。
司会者:唯一の収入源だそうですから(笑)。



名著「垂直の記憶」が発売され、もちろん、山の描写などはそちらのほうがずっと詳しいのですが、やはり、生の言葉は、身に沁みました。本で読んだ話でも、スライドを見ながら、直接、本人から説明を受けると、また違った印象がしましたし、この講演を聞いて、また「垂直の記憶」を読み返すと、さらに違う感想が生まれると思います。

今回、一番印象に残ったのは、すべての話が終わってからの最後の部分です(そのため、この部分は山野井氏の言葉をほぼそのまま載せました)。1年前の講演では、登りたい気持ちにはなっているけど、実際、どこまでできるのか分からない、という感じだったのですが、1年間のトレーニングである程度の手ごたえを得たのでしょう、今回ははっきりと次の目標を定めて、自分の力でやれるところまでやり続ける、という意思を感じました。
本人もおっしゃっていましたが、どういう形であれ、彼は一生登り続けるんだろうな、と思います。もうこれは、彼に課せられた宿命(さだめ)なのでしょうね。


<参考リンク>
エルクによる公式写真レポート(お店には、当日の模様を録画したビデオもあるそうです。)
雪山大好きっ娘。(2004年5月20日)



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