講演会聴講メモ
労山ヤングクライマーズフォーラムIV
山野井泰史氏を迎えて
「挑戦の軌跡」
(2003年5月17日)日本教育会館にて
注1)下記のメモは、2003年5月17日に行われた「労山ヤングクライマーズフォーラムIV 山野井泰史氏を迎えて『挑戦の軌跡』」の講演会を元に構成されています。 注2)テープから起こした完全な議事録ではなく、スライド中、真っ暗な中で私が取ったメモをもとにしておりますので、山野井氏の発した言葉そのものが記してあるわけではありません。 注3)私の聞き違い、勘違い、無知などにより、山野井氏の意図する内容と異なるものになっている可能性もあります。その点は、ご了承ください。 注4)こういったメモが著作権に抵触するかどうか、調べてみましたが、よく分かりませんでした。問題ある場合は対処しますので、こちらまでご連絡ください。 注5)私自身は労山や講演会主催者とは全く関係ないため、これは公式の記録ではありません。 注6)太字部分は、私が気になった(気に入った)発言で、山野井氏が強調した部分と言うことではありません。 注7)その他、下記の文章に関する文責はすべて神谷にあります。 18時30分。主催者側の挨拶のあと、山野井泰史登場。 少し足を引きずっている感じ。 マイクを持つ指は、短くなっており、手術のあとを物語っていた。 しかし、本人は非常に元気そうで、とても明るくしゃべっていた。 ●スライド編 本来は、ギャチュンカンの話が中心になる予定だったようだが、ギャチュンカンの写真そのものが少ないためか、山をはじめてからこれまでの軌跡をたどるような構成でスライドは始まった。 前半部分は、おそらくさまざまな講演会で行っているものと同じ内容なのだろう。群馬登高会(2000/10/20)、日本山岳会青年部(2000/9/21)の講演会議事録を見ると、似たような話をしているのが分かる。 スライドなしで、文章だけ読んでも判りにくいと思うが、メモ程度に気になった発言を羅列しておく。 今回が、ギャチュンカンの極限からの生還後初めての講演会と言うことで、やはり、ポイントはその話となった。一度でもこういった講演会に参加した事のある方は、ギャチュンカン部分だけでも、お読みください。 【導入】 ・ピークを目指す上で、どういった山に行きたいかというと、ピラミッドのような頂上がはっきりした山がいい。ルートもきれいなほうがいい。 ・技術的に難しいところを目指したい。そのほうが自分の能力を理解できる。それは、ハイキングをする人が北アルプスを目指すようなものだ。 ・一人で登ることは、技術的、精神的に難しいが、達成感が大きい。 ・小さな一人旅のほうが想い出に残る。 【始まり〜ヨセミテ】 ・小五のときのハイキングが山の始まり。 ・そのころ、将来のことを考えることもあったが、何歳でどこの山を登るか、ということを考えて毎日を過ごしていた。 ・中学に入るころには、20-30mの岩はロープなしで登っていた。 ・高校では、谷川の岩壁もロープなしで登った。 ・(当時の自室のスライドを見ながら)壁にはカンチェンジュンガの写真。本棚には「岩と雪」しかなかった。 ・高校のときから山の事しか考えていたなかったが、友達は多かった。 ・高校卒業後すぐヨセミテへ。エルキャピタンの岩場をたくさん登って技術を学んだ。 ・そのころ考えることと言えば、今晩のおかずと明日のルートのことだけ。とても楽しい日々だった。 ・ポーターレッジで過ごすのが一番の幸せ。夕方のんびり読書をする。下には何百メートルの空間がある。それがたまらない。 ・その後、マッターホルン北壁などを登り、もっと冒険的な土地でのクライミングを目指すようになった。 【1988年バフィン島・トール西壁】 ・ポーターがいないので130kgの荷物を自分で運んだ。一気に持つことは出来るのだが、それだと登攀前に疲れてしまうので、1日3回くらいに分けて、往復して運んだ。 ・一人でトール西壁を目指して出発するときはとても緊張した。何日岩壁で過ごすのか分からなかったし、ここで怪我をしても誰も助けてくれないと思ったからだ。 ・オーバーハングしたところのポーターレッジは嵐でブランコのように揺れる。そのために食糧袋を落として、その後三日間なにも食べなかった。でも三日くらい食べなくても何てことはない。 ・装備を買うお金がなかったので、目出帽はなし。手袋は1セットだけ。 ・トール西壁を8日で登りきったことで、自分で言うのもなんだけど、日本の登山界にも知られるようになった。 【1989年、90年パタゴニア・フィッツロイ】 ・小さな小屋で40-50日一人で過ごす。何もすることがないので、一日焚き火を見つめたり、懸垂してみたり、「地球の歩き方」を何度も読み返したり。 ・壁は技術的には難しくないが、台風並みの風で目が開けられず、自分がどこにいるのか分からなくなる。50mのバックロープが(風で)上に行ったり右に行ったりして大変だった。 ・ここでは、技術よりも精神力を学んだ。孤独であった。都心での孤独などという生易しいものではない。このとき以上の孤独は今までに経験していない。 【1991年ブロード・ピーク】 ・高山病に対する知識がなかったことと、登山申請が複雑だったので大きなチームの中で登った。 ・自分は、(外国の)言葉が出来ないが、うまくやっていける。パキスタンのポーターともふれあうことが出来た。そういうふれあいも大切だと思う。 ・どんな国でも何でも食べられる。パキスタンのカレーでも、ネパールのダルバートでも一年中それでも大丈夫なくらいだ。 ・(キャラバン隊の隊列が長く続く写真を見ながら)こういうのはあまり好きじゃない。嫌な写真。 ・ブロードピーク以降、アルパインスタイルで登るようになったが、極地法というのも高所が初めての人にはいい方法だと思う。 ・ブロードピークのときの8人のメンバーの中で一番高所経験は少なかったが、一番強かった(笑)。トレーニングのせいなのか、遺伝的なものなのかは分からないが。 ・8000mを越えると、頭がおかしくなってくる。名前は言えるが、住所は言えないとか。 ・初めてのヒマラヤを無酸素で成功できたのはラッキーだったが、この成功で、難しいところも一人で行けると思った。 【1992年アマ・ダブラム西壁】 ・単独登攀者が一番苦労するのはクレバスの通過。飛び越えるのだが、落ちたら10-100mくらいあって、帰って来れない。最近ジャンプ力が落ちた。 ・3日間で登頂。 【1994年チョー・オユー南西壁】 ・夢を実現するために。 ・高度順化のためにクラシックルートから何度も往復した。 ・(クラシックルートの)7000mまでハイキングのような気分で来れないと、南西壁は無理だと思っていた。 ・パルスオキシメーターは信用せず、(その高度で)ランニングが出来るか、とか、尿の色など、感覚で高度に適応しているかを考えている。 ・夜中に出発する。夜間の方が雪崩や落石が少ない。昼間寝たほうが寝袋が小さくてすむ。 ・高度が上がると、怖いという感覚が鈍くなるので、常に、怖いんだ、と意識するようにしている。 ・(高度障害のために)(一人で登っているのに)もう一人誰かがいるような感覚がしていた。なんでラッセルを代わってくれないんだろう、と思っていた。 ・高所では寝ることは考えない。テントでもマッサージで乳酸を取り除いたり、水をたくさん飲んで休むようにしている。 ・8000mを越えると、時々目が見えなくなることもあった。 ・このときの3日間の登攀で10kgやせた。 ・肉体が破壊され、脳細胞もかなり破壊されたと思う。でも「登りたい気持ち」と「頂上で感動できる気持ち」が残っていれば、あとは何もいらない。 【1995年レディース・フィンガー南西壁】 ・ルートの見つけ方は、(あれば)天体望遠鏡、(なければ)双眼鏡でクラックを見つける。花崗岩の色も見る。白や黒は脆い。赤くてクラックのあるところを目指して登る。 【1996年マカルー西壁】 ・荷物が重く、スピードが上がらず、落石により敗退。 ・テレビクルーがいて集中できなかった。本気の時にはテレビクルーはいないほうがいい。 【1998年マナスル北西壁】 ・雪崩で生き埋めになるが、何とか助かった。 ・未踏の壁を登りたいという野心があったのと、350万円もかけて来たのだから、と思って突っ込んでしまった悪い失敗例。 【日本の山・生活】 ・よく日本の山も登る。 ・日本の山も難しい。天気が悪いし、雪質も悪い。日本の山を登っていれば、登山の感覚は鈍らない。(日本は)優秀な登山家が育つ環境ではある。 ・質素な生活をしているが、遠征のためにお金をためているわけではない。こういう生活が好きなだけで、もし山をやっていなくても、こういう(質素な)生活をしていただろう。 【2000年K2】 ・昔からの憧れの山。「山の中の山」という形をしている。頂上に立ってみたい形だ。 ・BCに着いてずっと天気が悪く、東面に3回行ったが、そのたびに駄目だった。 ・パートナーのクルティカは帰ってしまったが、自分自身はあきらめられないので、南南東稜から一人で登る。 ・出発のときの緊張感はなかった。何百回も単独をやってきていたし、高山病に対する知識もこのときには十分あったから。 ・軽量化のため、食糧はブドウ糖とビタミン剤くらいだった。 ・8000m以上に滞在できるのは50-60時間が肉体的な限界。時間の感覚が失われ、1時間が2-3分に感じられる。 ・8200-8300mのボトルネックのトラバースで下山中に落ちた。 ・滑落停止をしたが止まらない。映画ではないが、3000m切れ落ちた岩壁の数m手前で止まった。 ・K2の登攀中はずっと素手で活動していた。 ・BCとの交信では、体調などを聞かれるのだが、「今日はいい天気だ」というのを何回も繰り返して答えていたようだ。(高山病のせいか?) ・このときは下山後興奮状態で、降りてから4日間眠れず、3日間食事も出来なかった。 【2002年ギャチュンカン】 ・ギャチュンカンの前にアメリカでフリークライミングをしていた。 ・4000mくらいのクライミングやハイキングで高度に慣らした。出来る限りのトレーニングを積んでいた。 ・ネパールからチベットへ入ってからもいくつかのピークで順化をした。 ・体調は完璧で、5000mでも走れるくらいだった。 ・ヤク6頭、ヤク使い3人、コック1人を連れてBCへ。 ・ヤク使いの一人は小さな女の子。生活のために仕事をしている。自分は、楽しむために来ている。そのギャップに疑問を感じた。 ・5300mのBCからギャチュンカンまでは8-9kmくらいあってとても遠い。 ・10/6出発。複雑な氷河を右へ左へクレバスを越えていく。 ・すでに(凍傷のためか)右足の感覚がなかったが、そのうち戻るだろうと思っていた。 ・傾斜は60-70度。アルパインスタイルでは理想的な傾斜で、ロープは不要だった。 ・7000mの雪壁。40-50cm雪を削ると岩が出てくるようなところにテントを押し付けるようにして立てる。 ・靴を脱いでマッサージをしたかったが、(ビバーク地の状態が悪くて)出来なかった。せめてここでマッサージをしておけば、と今は思う。 ・10/7。雪の10cm下は岩で、ピッケルがすぐ岩に当たる。スピードは順調。 ・7500mで妙子さんは弱っていたが、あきらめる雰囲気ではなかった。 ・この日靴を脱いで見たら、2度くらいの凍傷で、紫色になっていた。指を切るかもしれないとは思ったが、あと200-300mなので、あきらめられなかった。足以外の体調は良かった。食欲もあった。 ・10/8。吹雪の中頂上を目指す。 ・1時間経たないうちに妙子さんは降りる。山野井氏は6時間吹雪の中を登って午後1時30分登頂。頂上は1-2分で降りる。少し晴れるがすぐ大雪。 ・退却が困難になるのは理解していた。でも下山するしかなかった。 ・7500mの高度では何日もいられない。雪のコンディションもどんどん悪くなる。 ・70度以上の傾斜で5-10cmしか雪が削れないところでビバーク。 ・雪崩に何度も襲われる。 ・10/9。吹雪の中下降開始。(雪崩のため)目が見えなくなって、自分の手のひらすら見えない。 ・10/10。岩のクラックも見えないので、素手になって(懸垂支点を作るための)クラックを(手探りで)探す。一本打つのに30分以上かかる。 ・このときには指を落とすのは覚悟していた。 ・4回懸垂して、90度の氷壁でビバーク。 ・二人とも手がカチカチに凍っていた。 ・10/11。15時間行動して氷河へ。 ・10/12。何度も幻覚を見る。(いないはずの)パキスタン人と何度も会話した。 ・妙子さんは弱っていて4日間飲まず食わず。胃液を吐き続けていた。 ・氷河からBCまで膝くらいのラッセル。一日でたどり着けず、荷物をすべて捨てる。 ・妙子さんは5歩あるいては立ち止まり、5歩あるいては座り込む、という感じ。 ・(妙子さんを)背負うことも出来ないので、強引に引きずっていく。 ・寝袋も何もないビバーク。内臓まで冷え切っている感じがした。 ・山野井氏も胃液を吐き続け、妙子さんは何度も意識が飛んでしまうことがあった。 ・死んでも悔いはないと思った。ここまで苦労して降りてきたから。こんだけ限界まで出し切ったから悔いはないと思った。 ・10/13。BC着。 ・手足は真っ黒。食事も出来ず。トイレもコックに手伝ってもらう。 ・(指が短くなったが)それほど悲しいと思わない。結構いい思い出。いい登山だった。 ・入院したとき、25年以上休みなく登って、もうやめてもいいかな、やめようかな、と思った。 ・でも、1ヵ月後、やっぱり登りたくなってきた。 ・記録とか、ほかの人へのアピールではなく、それは衝動のようなものだから。登ることをやめられない。 ・「これからも登っていくでしょう。」 ・ものすごいトレーニングをしたとしても昔の状態には戻れない。 ・山は良いから一生登るだろう。自然を理解する、自分の能力を見るのには最高の手段。 ・ゆっくり回復させて、小さな山からやっていきたい。 ・「やめられない」(とつぶやく) ●質問編 しばらくの休憩のあと、代表者(3人)による質問会となった。 ◆ギャチュンカンを登りたいと思ったきっかけは? ・クルティカとパキスタンの尖塔を登ったときに話は出ていた。クルティカは仕事の都合で行けなくなったが、自分は行きたいと思った。 ・高いところで、難しいところ、人が触れていないところが良い。8000mにはあまりない。(ギャチュンカンは7952m) ・(山に登るとき)偵察をしたことはない。行って駄目なら帰ってくればいいか、くらいの感じ。綿密に日本で計画を立てるわけではない。北東壁が登れなければ、二人で北壁でもいいかと思っていた。 ◆二人で登るのと一人で登るのとの違いは? ・奥さんだから登るのではない。クライマーとして優秀だから一緒に行く。 ・でも、今度行くときは一緒には行かないようにしよう、と妙子さんから言われた。二人で行くと必ず大きな怪我をするから。 ・見栄を張りたい気があるのかもしれない。ほかの男と行くときより無茶をしてしまうところはある。 ・生き残るためには一人で登るのがいいようだ(笑)。 ◆夜行動するメリットは? ・夜は食事しない。明るくなってから炊事するので、燃料は関係ない。ヘッドランプは確かにバッテリーを食う。昔は特注でイスラエル製の軍事用で150時間もつやつを使っていた。 ・夜行って楽しくないのは、高度感が分からないこと。真っ暗だと景色を楽しめない。 ・でも、(実は)景色なんかどうでも良いかも(笑)。 ◆雪崩を受けたときの感じは? ・5-10cmくらいのテラスでのビバークだった。(腰が引っ掛かっているだけなので)雪崩を食らえばすぐ落ちる。 ・妙子さんは落ちてもそのままぶら下がった状態だったが、それだと支点のハーケンに負荷がかかるので、怒って元に戻るように言った。 ・6本ハーケンを打ったが、ほとんど効いてなかった。均等にバランスが取れるようにいつもチェックはしていた。そういうのはちゃんと考えた。 ◆運が強いほうだと思うか? ・運で生き残ったのではない。自分のテクニックで生き残った。 ・ギャチュンカンでも、あの壁の中で一番雪崩の来ないところでビバークしたのだ、という自信はある。あそこ以外のビバーク場所は考えられない。 ◆高所順応のやり方について。 ・18回ヒマラヤのピークを目指したが、毎回調子は違った。 ・低圧室にも入ったこともあるが、現地の人と触れ合って、山を見て、「順応したいな!」と思うことが大切だと思う。 ・パルスオキシメーターは信用しない。自分の調子をいつも感じられる人間でいるのが良いと思う。 ◆吹雪だったけど頂上を目指したのは? ・ギャチュンカンは中の上くらいのレベル。 ・「あきらめきれない」という気持ちが強かった。 ・自宅の近くの石ころ(ボルダー)を登っても発表するわけではない。でも、「登んなきゃだめ」と思う。これは本能であり、抑えきれない。 ・「行くしかない」それしかなかった。 ・ここ(下界)ではいろいろ考えられるけど、あそこ(現場)では普通の状態ではなくなってしまう。 ◆結局、登るときにはロープなしだったが。 ・7000mで4級の岩場が出てきた。本来なら怖いが、妙子さんが要らないといったので、使わなかった。 ・頂上直下は本能むき出しで登る。 ◆その他 ・一日中双眼鏡を見て、イメージトレーニングする。 ・悪天候ならどうするか、どのクラックにハーケンを打つか、スクリューをどこにセットするか、あの岩をどういうムーブでクリアするか、考える。 ・悪天候でも勝算はあった。 ・(聴衆に向けて)「山はリスクはつきものだから、リスクを楽しんでください」 ・一年間は何も考えずにいようかな、と思っていたけど、今朝も(山の)雑誌をぺらぺらめくって(どこに行こうか考えて)いた(笑) 以上。 20時45分ころ終了。 相当の重傷をおったはずの山野井氏でしたが、全く元気で、まだまだ登りたい、という意思が十分に感じられました。 言葉の一つ一つが重く、そして、山が本当に好きなんだという気持ちがこちらに伝わってきました。名誉のためとか、記録のためとかではなく、好きだから、本能だから、登りたいから、そういう気持ちで登っている、というのが素晴らしいです。 |