山小説の棚(その5)

[山小説インデックス

「灰色の北壁」→【bk1】/【amazon】
真保裕一 講談社 2005年

山を舞台に事件が起きる、となると、たいていは殺人か、あとはゲリラとかスパイがらみのものが多い。山という特殊な閉鎖空間を利用すれば、完全犯罪を目論みたくもなるだろうし、厳しい環境という条件から、敵と戦いつつ自然の猛威とも戦う、という冒険小説の主人公も活躍のしがいがある。
そんな山岳小説の世界に新たな地平を切り拓いたのが、この「灰色の北壁」だ。
事故が起きたり、人が死んだりはするが、それそのものが問題ではない。
それでいて、ミステリ的要素を十二分に盛り込んでいるというのがすばらしい。
まさに山岳小説界の初登攀、新ルート開拓、そんな感じがする。
所詮はフィクションで、現実にはかなわないでしょ、という人にこそ読んでほしい。フィクションでしかなしえない、物語のおもしろさと、リアルなクライミング描写の融合、それがここにある。

※なお、初出時とは、誤字、脱字、改行、表現など手直しされている部分も多い。

「黒部の羆(ひぐま)」
ある年の11月、山小屋の撤収準備をしていた元山岳救助隊の"羆"は、緊急無線の呼び出しを受けた。剱岳源次郎尾根で遭難者からの救助要請があり、現場に近い"羆"に協力を申し出てきたのだ。救助隊本隊の到着を待っていては間に合わない。彼は一人で現場に向かう事に決めた。
一方、大学登山部の矢上と瀬戸口は、源次郎尾根登攀中、リードしていた瀬戸口が滑落し、ロープで宙吊りになっていた。矢上は無線で救助を要請。しかし、救助隊が現場に到着するのは明日になりそうだ、とのこと。悪化する天候の中、ビバークを迫られる二人。そこに"羆"が現れた。


「ホワイトアウト」で圧倒的な雪の描写を見せた真保裕一だけあり、雪山の雰囲気は十二分に伝わってくる。冬剱の寒さや雪の状態などが文章によってリアルに表現されている。読んでいると、こっちまで震えてくるほどだ。
自己脱出やロープ操作など、全般的にかなり詳細かつ正確なクライミング描写となっていて山ヤも満足できると思う。
遭難者の緊迫感、徐々に明かされていく人間模様には、読者をぐいぐいと引き込んでいく力がある。そして、ラストに明かされる"真実"。これには驚かされた。思わず、もう一度最初から読み直して、なるほど納得させられた。

※初出時に指摘した「スノーハーケン」という表現は、訂正されて、なくなっていました。

この物語の最大の肝は、このラストの"真実"の部分にあるのだが、ネタバレなしではとても語れないので、別ページで検証してみる。未読の方は、目を通さない方が絶対いいです。

「灰色の北壁」
ヒマラヤ山脈に位置する「カスール・ベーラ(7981m)」は、別名「ホワイト・タワー」と呼ばれ、切り立った塔のような白い山である。その北壁は、約三キロに渡り垂直に立ちはだかっており、まるで『この世界の端をさえぎる壁』であった。
その山を初めて制したのは、御田村良弘。1980年8月8日南東稜からのことだった。北壁はその後も幾多の挑戦をはねつけていたが、19年後の1999年9月22日、刈谷修がついに北壁を制した。
その刈谷についてのノンフィクションを「わたし」はスポーツ雑誌に掲載した。もともとは、奇跡の登攀を描くドキュメンタリーになる予定だったのだが、ある人物のインタビューを機に、それは刈谷の疑惑を究明する原稿になってしまった。
刈谷修が山頂で撮ったとされる写真。そこに疑惑の根源が存在した。果たして真実はどこにあるのか。
ある日、その刈谷がカンチェンジュンガで遭難死したという知らせが「わたし」の元に届いた。彼の死は「わたし」の原稿が原因だったのだろうか。


小説家の「わたし」(真保自身がモデルだろうか)が雑誌に掲載したノンフィクションのパートと、刈谷の事故を聞いた「わたし」自身が動く現在のパートが交互に描かれる。

ノンフィクションパートの部分は、スポーツ雑誌に掲載された原稿という体裁で、登山の歴史や登攀方法など詳しい解説を交えながら、書かれている。
そのことがむしろ、登山に詳しくない読者にもわかりやすくなるという効果を上げている。純粋な登攀シーンで、ごちゃごちゃと解説が入ってくると、文章のリズムや緊張感が失われるものだが、ノンフィクション原稿というだと思えば、違和感なくすっきり読める。

山の描写や登山家の心情など、書かれているひとつひとつの表現の的確さに驚かされる。
『ここは山ではありえなかった。世界の重力が異常を来たし、天と大地が九十度のゆがみを起こしている。見渡す限りの大岩盤が、神の悪戯で垂直にそそり立ち、天を貫く高峰の頂を支えてそびえる。』というカスール・ベーラ北壁登攀時の描写。
『刈谷修は、クライマーとしての栄光のために、カスール・ベーラ北壁に挑んだのではない。彼にはカスール・ベーラの初登頂に成功した御田村良弘を、一人のクライマーとしてではなく、一人の男として越えなければならない理由があった。』という登山家の内面描写。
どれもリアリティにあふれている。

御田村良弘、刈谷修、刈谷の妻ゆきえ、さらに御田村の息子和樹。彼らの複雑に絡み合った人間関係も読みどころ。クライマーとして尊敬しつつも、嫉妬したり、近づけなかったり、という微妙な感じがうまく出ている。

なぜ山に登るのか、という質問も出てくる。
刈谷『そこには山しかなかったからだ。』
和樹『父たちが見た光景を、ぼくもこの目で確かめてみたいんです。』
このあたりにも、それぞれの個性がよく出ている。

二つのパートが補完し合いながら、真実に向けて疾走していく展開は見事としか言いようがない。山を舞台にしたミステリとして全く新しい手法だと思う。こんなやり方があったのか、と正直驚かされた。傑作。

「雪の慰霊碑」
坂入慎作は、雪の残る春の北笠山にひとりで向かっていた。ちょうど三年前、この山で一人息子の譲が遭難事故で死んだ。妻も病気で失い、残されたのは自分だけ。半年前からツアー登山に何度か行っただけの52歳の坂入にとって、重いザックは身に応えたが、それでも黙って歩き続けていた。
同じ頃、譲の婚約者だった多映子が坂上の家を訪れ、異変に気づいた。身辺整理をしたようにゴミが出され、譲の墓には花が供えてあったのだ。多映子は、譲の従兄にあたる雅司とともに、坂入の身辺を調べるうち、ある確信を持つようになった。坂入は譲の後を追って死のうとしているのかもしれない。


坂入のパートと雅司&多映子のパートが交互に描かれるという構成は、他の二作とよく似ている。
山そのものの厳しさはなく、大きな事件が起こるわけでもない物語は、一見地味に感じられる。しかし、人間ドラマという観点から見ると、三作の中で最も深いものになっているように思う。父と子、男と女。それぞれの想いが交錯し、北笠山の頂上に収束していく様はなかなかに感動的だ。

『死んだ従弟に勝負を挑むつもりでいながら、戦う相手はもっと身近にいたのだと想像すらできず、見当違いの尾根を目指して突き進もうとしていた』
『嫉妬の風に吹かれて狭い胸の雪庇が崩れ』
などという心情を山になぞらえる表現もおもしろい。

とはいえ、実際問題として考えると、思わせぶりな言動を残して山に向かった親父さんと、悪い方へ悪い方へ推測を重ねた元婚約者の二人が、周りをかき回して、騒ぎを大きくしているだけ、という感じも受ける。結局、親父さんは何がしたかったのだろう。それが今ひとつよくわからない。

ひとつ突っ込んでおくと、慎作はロープを持って北笠山に向かっているが、初心者が、雪稜で、単独で、ロープを持って行ってどう使うつもりだったのだろうか。しかもロープワークについては講習も受けていないようだし。(使い方がわからないからこそ、ともかく必須装備のひとつと思って持って行ったのかもしれない、という推測も成り立つが)

クライミング・ブック・ニュース3月24日付から転載。)



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