●山小説の棚(その2)
「密閉山脈」森村誠一 角川文庫、中公文庫など 1971年
「生還者」大倉崇裕 「完全犯罪証明書 ミステリー傑作選39」(講談社文庫)収録 2001年
「黒部の羆(ひぐま)」真保裕一「乱歩賞作家 赤の謎」(講談社)収録 2004年
「クライマーズ・ハイ」横山秀夫 文藝春秋 2003年
「槍ヶ岳」奥田岳志 文芸社 2003年
「谷川岳鎮魂」瓜生卓造 実業之日本社 1972年(絶版)
「遠き雪嶺」谷甲州 角川書店 2002年
「青年と沙漠」望月勇 講談社出版サービスセンター 2002年
「鎮魂花」谷山稜 文芸社 2001年
「密閉山脈」→【bk1】/【amazon】 森村誠一 角川文庫、中公文庫など 1971年(乱歩賞作家書き下ろしシリーズ(講談社) 影山と真柄は、冬の八ヶ岳山中で、倒れていた貴久子を発見した。彼女は、職場での失恋から自殺しようと山に来ていたのだった。二人は彼女を遭難者として救助する。その後、影山、真柄は二人とも貴久子に惹かれていくが、喜久子は影山と結婚することを決め、それを真柄にも伝えた。 五月末、K岳北壁の登攀を計画する影山と真柄。しかし、直前になって真柄は参加を辞退する。やむなく単独で壁に向かう影山。現地の宿には喜久子がいた。二人には約束があった。山と街で灯火の点滅のやり取りをして、二人だけの愛の交感をしよう、というものだった。 そして、約束の夜。 影山が山から送ってきたのは、約束の合図ではなく、遭難信号だった。 翌日、遭難救助隊がK岳山頂で影山の遺体を発見する。 現場の状況から、それは落石による事故として処理された。しかし、そこに疑問を持った男がいた。それは、救助隊隊長の熊耳だった。 森山誠一の山岳ミステリは、かつて「未踏峰」を読んだことがあったが、それほど面白いとは思えず、以降、全く関心の枠外にあった。今回、テレビドラマ化されるということを聞いたので、事前の予習、くらいの気軽な気分で読み始めた。 読み終わって思った。なぜ、こんなすごい小説をなぜ今まで読まなかったのか、と。 ミステリとしても山岳小説としても良くできていると思う。 ミステリ的要素としては、「密室」と「アリバイ」という2つのトリックがある。 登場人物はごく限られている。影山、真柄、貴久子、そして警察の熊耳。このうち影山が死んだのだから、もう犯人は限定されてしまう。 にもかかわらず、読ませるのだ。 現場であるK岳山頂付近は積雪があり、一般登山道から何者かが登った形跡はなかった。岩壁からなら現場に近づくことは可能だが、相当の時間がかかってしまう。これが「密室」状況を作り出す。 また、犯人は遭難信号から約1時間後に、宿にいる貴久子のもとに現れた。遺体発見現場はK岳山頂。いくら急いで降りたとしても山頂から1時間では絶対に下山できない。これが完璧な「アリバイ」となっている。 そのほか、徐々に現れる物的証拠、状況証拠が犯人を指し示すが、それを追求しようとすると、犯人は巧緻な「逃げ」を用意してあり、どれもが決定的な証拠とはなり得ず、追い詰めることができない。 そもそも、「密室」と「アリバイ」を崩せない限り、どう考えても彼に犯行は不可能、ということになってしまう。 犯人は彼でしかありえない、と思い追い続ける警察と犯人とのやり取りは、息詰まる心理戦のようで、読んでいてどきどきしてくる。 山岳要素としては、K岳の岩壁登攀。そして(少し唐突に思えるが)K2への遠征、ブライトホルン北壁登攀、が描かれる。書かれたのが昭和46年のことだけあって、岩登りの描写は今から見ると古臭く感じるが、当時の状況はよく知らないので、「ここがおかしい」というのはあえて指摘しない。そういう細かい部分とは関係なく、登攀の緊張感は十二分に伝わってくる。 ちなみにK岳は鹿島槍ヶ岳がモデルだろう。「隠れの里(カクネ里)」「赤杭尾根(赤岩尾根)」「樽ヶ岩の小屋(冷池山荘)」「奥村田(大谷原)」という地名が出てくる。前二つは名前も似ている。ただ、北壁頂上直下の『赤い壁』と呼ばれるオーバーハング帯の通過が物語のキーポイントとなるのだが、そういう部分は実際には存在せず、それゆえに、山名も架空のものとしたのでは、と思われる。 ラストが近づくにつれ、物語の展開は加速度を増していく。 K2登攀と日本での捜査が交互に描かれ、双方がクライマックスを迎え始めると、読んでいるほうも止まらなくなってくる。 最後に明かされる犯人の意思。その悪意には、あまりの恐ろしさに背筋が震えるほどだった。登山家の心情の裏と表、本音と建前をえぐりだしているようであり、ある意味衝撃的だった。 後味の良いラストではないが、トリックも動機もうまくまとまっていると思う。 ヒロインの貴久子のどうしようもなく憎らしいキャラクターに途中挫折しかけたが、最後まで読んでよかった。 これは、山岳ミステリの歴史に残る大傑作でしょう。 「密閉山脈」は漫画版も出ているようで、機会があったら探してみたい。 テレビドラマは、2005年3月12日土曜ワイド劇場「森村誠一の密閉山脈 殺された婚約者、雪山に氷点下30度の遠隔トリック…山岳パトロール隊熊耳警部補の推理解析」としてテレビ朝日系列で放送。舞台が谷川連峰になるなど、だいぶ脚色が加えられていた。室内壁でのクライミングシーンや熊耳の過去が語られる部分など、原作にはなく、新たに追加されたことで、内容が深まったところもあるが、全体においては、チープな出来だったと言える。一番気になったのは、物語の核心となる犯人の動機。あの「悪意」がドラマ版では300倍くらいに薄まっているように感じた。「いろいろあって仕方がなく殺しちゃいました」という結末になってしまっていたのが残念。震えるほどの悪、というのを見せつけて欲しかった。(クライミング・ブック・ニュース3月12日付から転載。一部加筆。) 「生還者」→【bk1】/【amazon】 大倉崇裕 「完全犯罪証明書 ミステリー傑作選39」収録・講談社文庫 2001年 1月北アルプスの茂霧岳で遭難事故が発生。「山人会」という山岳会の弓飼啓介が、下山予定を過ぎても帰ってこない、とのこと。悪天のため捜索が難航するが、遭難から10日後、弓飼は“奇蹟の生還”を果たす。 同じ年の3月。今度は黒神岳で滑落者。黒神岳と茂霧岳は同じ山域で距離も近い。滑落したのは、小倉栄治。彼は、「山人会」のリーダーで、1月の茂霧岳での事故で捜索に協力していた。山岳警備隊の松山は二度目の奇蹟を祈るが、願いむなしく、小倉は遺体で発見された。 状況としては、岩稜帯からの滑落と見えたが、松山は小倉の死に不審な点を感じた。事故なのか、殺人なのか。調べていくうちに、過去の別の山岳遭難との関連が浮かび上がってきた。 1998年の作品。「捜索者」を読んだことで、同じ作者の前作が気になり、読み返してみた。だいぶ前に読んだので、すっかり忘れていたのだが、主人公である山岳警備隊隊長の松山は、共通であった。そのほかにも非常に共通点の多い作品。 ・最初の事故発生。間をおかず二回目の事故が発生する。 ・調べるうちに、さらに過去の事故が関わっていたことがわかる。 ・その事故の追悼文集を読んで、つながりのないと思われた二人の接点が見つかる。 ・ラストは、松山と犯人が山の現場で二人きりで語り合う。 シリーズだから、あえて似た形式を取っている、という可能性もなくはないけれど、これでは、共通部分が多すぎるように思える。「捜索者」で気になった「バースルート」という表現はこちらにもあったようで。 突っ込みどころもいくつかあるが、「捜索者」に比べてはるかに完成度は高いと感じた。全体にミステリ的要素よりも、山の表現とか人間模様が重視されているようなので、動機やトリックなどの矛盾もあまり気にならなかった。 山岳警備隊を辞めようか、と悩む松山のキャラクターもいい感じ。以下、引用。 『山に登ること、それ自体がリスクなんだ、という登山家もいる。たとえ、その先に死があると分かっていても、好きなものを追い求める気持ちだけは、どうしようもない。 松山自身、そうした意見には納得できなかった。確かに、山は容赦なく人に牙をむく。だが、山は決して冷徹なものではない。生と死の微妙なバランス。それが、山の魅力なのだ。死だけを追い求めて山に登るようなことは、決して行なってはならない。』 個人的に、山小説には、トリックなどより、こういう山に対する想いみたいなものを描く部分を求めているので、そういう意味でも満足できるものであった。 一応、気になった部分を列挙しておくと。 ・小屋に泊まった大学生たちはあの日何をしていたのか。ヘリに乗って下山するのも解せない。 ・アイゼンの要不要が物語のポイントになるが、3月とは言え北アルプスの2000mを越える稜線なら、アイゼンは必須だと思われる(架空の山のことなので絶対とは言えないが)。 ・警備隊の動きにムダがある。ヘリで4人先行、徒歩で11人が捜索に当たるが、先行部隊が遭難者の死亡を確認した時点で後続徒歩部隊は下山してよいのでは。 ・その他(ヘリの使い方、遺体の収容法、アイゼンはテントの中を探してもたぶん見つからないだろう、「カラビナ、チェックしておけよ」ってどういう意味?、3月の雪解け水をちょっと触ったくらいで凍傷にはならない。など) (クライミング・ブック・ニュース3月9日付から転載。一部加筆。) 「黒部の羆(ひぐま)」(「乱歩賞作家 赤の謎」収録)→【bk1】/【amazon】 真保裕一 講談社 2004年 ある年の11月、山小屋の撤収準備をしていた元山岳救助隊の"羆"は、緊急無線の呼び出しを受けた。剱岳源次郎尾根で遭難者からの救助要請があり、現場に近い"羆"に協力を申し出てきたのだ。救助隊本隊の到着を待っていては間に合わない。彼は一人で現場に向かう事に決めた。 一方、大学登山部の矢上と瀬戸口は、源次郎尾根登攀中、リードしていた瀬戸口が滑落し、ロープで宙吊りになっていた。矢上は無線で救助を要請。しかし、救助隊が現場に到着するのは明日になりそうだ、とのこと。悪化する天候の中、ビバークを迫られる二人。そこに"羆"が現れた。 乱歩賞作家による中編アンソロジー「赤の謎」の中の一編。「ホワイトアウト」で圧倒的な雪の描写を見せた真保裕一だけあり、雪山の雰囲気は十二分に伝わってくる。アイスハーケン、スノーハーケン(?)の使い方など、厳密に言うと首を傾げざるを得ないところがあったり、学生が剱に来た動機の部分もちょっと納得しかねるが、自己脱出やロープ操作など、全般的にかなり詳細かつ正確なクライミング描写となっていて山ヤも満足できると思う。参考文献に「冬期クライミング」(白山書房)もあがっているし、そのあたりは著者も相当勉強されたのではないかと伺える。ただ、クライミング関連の専門用語が解説なしに多数出てくるので、逆に山を知らない人にとっては分かりにくく感じるかもしれない。 遭難者の緊迫感、徐々に明かされていく人間模様には、読者をぐいぐいと引き込んでいく力がある。そして、ラストに明かされる"真実"。これにはびっくり。思わず、もう一度最初から読み直してしまった。乱歩賞作家のアンソロジーに収録されているだけのことはあり、ただでは終わらない(あまり詳しく書くと、これから読む人の興を削いでしまうことになるので、これ以上言えないのが残念)。 ここまで山岳描写とミステリ的要素がうまく組み合わされた山小説は初めて読んだ。中編なのだが、何度も味わえるのでお得。さすが真保裕一だな、と思わせる一編であった。(クライミング・ブック・ニュース4月23日付から転載。一部加筆) ※2005年「灰色の北壁」として単行本にまとめられた。その際、上記のスノーハーケンなどの表現も改められたようだ。 「クライマーズ・ハイ」→【bk1】/【amazon】 横山秀夫 文藝春秋 2003年 1985年8月12日、日航機が墜落した。未曾有の巨大事故は、北関東新聞の記者である悠木の運命をも巻き込んだ大事件となった。 それから17年後、彼は、谷川岳衝立岩にいた。17年前の約束を果たすために。17年間の想いを込めて。 満員の通勤電車の中で読んでいた。その瞬間、眼の前の現実が消え、そこに衝立岩のハングがそびえ立つのを感じた。 アブミの最上段に立つ、あの緊張感には、なかなか慣れることができない。2段目と最上段は全然違う。2段目では届かないような遠い支点に、カラビナを掛けるためには、最上段に立たなくてはならない、それは分かっているのだが、一歩がなかなか踏み出せない。アブミの最上段に立つと、手の持って行き場がない。上にホールドがあれば、それを掴んで、身体を持ち上げられる。でも、壁に何もなかったり、ハングしていたりすると……。壁から上半身が引き剥がされる感じがする。バランスが崩れるし、支点への加重の方向が変わるので、支点が抜けるかもしれない。その恐怖は、たとえフォローで登っていても同じことだ。 その一瞬を描いたのが、この作品である(と私は思っている)。 もちろん、著者本人が新聞記者であり、18年前に実際に現場を取材したという経験を活かした、メインストーリーたる御巣鷹山日航機事故をめぐる展開も、読み応えは十分である。と言うよりも、物語全体の分量から言えば、登攀シーンそのものはわずかな部分なので、本来なら、新聞社内の確執だとか、親子の問題だとか、そういう部分がこの小説の読みどころなのだと思う。 しかし、それらの全てが、衝立岩雲稜第一ルート、第一ハングのその一手、わずか5cm、そこを越えるという瞬間を描くために、作られたのではないかと思えるほどに、その衝立のシーンは、緊迫感に満ち、印象的な描写となっている。あの、アブミの最上段に立つという緊張感。その瞬間をここまでリアルに描ききった作品は、これまでになかったと思う。その一点を読むだけでも、この小説には価値がある。 横山秀夫と言えば、山漫画「PEAK」(画:ながてゆか・講談社コミックス)の原作者でもある。あの漫画は相当にとんでもない話で、現実離れした展開には呆れるほどだった。読んだ当時は、原作者が全く山を知らないから、こういうことになったのだろう、と思った。だが、「クライマーズ・ハイ」を読んで、その考えも変わった。もしかしたら「PEAK」も原作を小説として読むことが出来れば、それは、結構面白い内容なのかもしれない、そう思えるのだ。漫画として画になってしまったからこそ、見えなくなってしまったものがあるのではないだろうか、と思う。「PEAK」2巻には、衝立岩について彼が熱い想いを込めたエッセイが載っている。興味がある方は、そちらも合わせてお読みいただきたい。(2003年8月31日) 「槍ヶ岳」→【amazon】 奥田岳志 文芸社 2003年 2歳の時、父親を冬季の槍ヶ岳北鎌尾根で失った勝弘は、その後の人生も苦労の連続で、全ては父を奪った山のせいだと考え、山を恨むようになっていた。 しかし、あるきっかけで、父親の死の真相を知った勝弘は、逆に山を憧れの対象として考えるようになり、次第に山にのめり込んでいく。目標は、父が命を懸けた山、槍ヶ岳……。 タイトル通り、「槍ヶ岳」にこだわり抜いた作品。 主人公の高校生が、槍ヶ岳に登るために、トレーニングやアルバイトをしながら、一歩ずつ歩んでいく姿は、見ていて清々しい。また、未だ山に対する反感を持つ母親との対立など、山以外での人間ドラマも、よく描かれていると思う。 ただ、槍ヶ岳があまりにも厳しい山として描かれ過ぎているのが、気になった。 もちろん、高校生にとっては、易しい山ではないかもしれないが、そこまでじゃないだろう、と思う部分もちらほら。著者もあとがきで書いているように、あくまでもフィクションなので、架空の「槍ヶ岳」と言う名前をした峻険な山をイメージするのがよいのかもしれない。 詳しくは、ネタバレになるので書けないが、山を「善・悪」「征服・敗北」の対象として捉えている主人公に、槍ヶ岳は非情な仕打ちを見せる。 ここから、さらに深く踏み込んで、「山に登るのは、勝負ではない。山に登るとは……」と言うところまで描いてくれれば、なお面白くなりそうだったのだが、物語はそこで幕を閉じる。 勝弘と、ライバルでありパートナーとなる祐介、このふたりの物語は、すべてはこれから、というところでラストを迎えてしまうのが、残念でならない。 この調子で、岩壁登攀へ挑戦、そしてヒマラヤの難ルートなどを目指す、という展開にならないものか、と妄想してみたくなる。(2003年8月9日) 「谷川岳鎮魂」 瓜生卓造 実業之日本社 1972年(絶版) 1939年谷川岳滝沢下部初登を遂げ、その後、一ノ倉で悲劇的な最後を迎えた平田恭助の生と死を綴る、ノンフィクションノベル。 滝沢初登の栄光から始まり、中盤の街での苦悩、そして悲劇的な最終章--。あまりにもやりきれないラストなのだが、これが事実であるというのがまた悲しみを増幅させる。 この平田氏の遭難(二重遭難)は、良く知られており、「私の山谷川岳」(杉本光作・中公文庫)に詳細が出ている。また、「日本のクラシックルート」(山と渓谷社)のコラム(84p)や「喪われた岩壁」(佐瀬稔・中公文庫)、「みんな山が大好きだった」(山際淳司・中公文庫)にも紹介されている。 特に有名なのが父親の平田栄二氏が息子の登った一ノ倉を初めて見たときのこの言葉だ。 『何といふ山なのだらう。こんなところを登つたのか。…(中略)…あきらめなくてはいけない』 これは、「氷壁の達人」(神田たけ志・主婦と生活社)の冒頭(1巻8p)にも使われている。 登攀シーンは秀逸。滝沢初登を描く前半部は特に素晴らしい。平田氏が、滝沢下部に狙いをつけ、全てを賭けて挑んでゆく姿には、羨望すら感じる。著者の精緻な文体、特にワンムーブワンムーブを事細かに描くような登攀の場面には、頭がくらくらしてくるほどリアリティがあり、読み手をのめり込ませる。 実際の滝沢の登攀では、平田氏がリードしたわけではなく、北アルプス案内人の浅川氏の力によるものが大きいのだが、平田氏を主人公にしたことにより、この小説に緊張感をもたらしている。浅川氏は絶対の自信があり、滝沢下部の登攀を余裕を持って行っているのだが、平田氏は、果たして自分に登れるのだろうか、という気持ちの方が強い。だからこそ、読者が、より共感でき、感情移入もしやすくなる。 単なる登攀記録なら、この滝沢下部を登ったところで終わりとなるだろう。しかし、平田氏の苦悩はここから始まり、それがラストの悲劇につながってくる。登攀の前と後を描き、人間を描いているからこそ、心を揺さぶられるものがあると思う。単なる登攀記録では味わえない、小説の力がここにはある。 「日本の岩場」(白山書房)を確認すると、「滝沢下部トラバースルート」の初登者として、平田恭助の名前はしっかりと刻まれている。私はまだ滝沢に入ったことはないが、これを読んで、是が非にでもこのルートに行ってみたくなった。『滅多に登るものはおらず』『支点もほとんど腐食している』などと書いてあるが、どうなのだろうか。登り終えてから再び読み返すと、また違った味わいがあるだろう。 「遠き雪嶺」→【bk1】/【amazon】 谷甲州 角川書店 2002年 昭和十一年。ヒマラヤの処女峰ナンダ・コートを目指した日本人の物語。それは、日本人にとって初めてのヒマラヤ遠征であった。 山岳小説というよりも、ほとんどノンフィクションのドキュメンタリー。 超人的なクライマーが出てくるわけでもなければ、反政府ゲリラとの死闘があるわけでもない。ヒマラヤに憧れ、そしてその夢を実現していく立教大学山岳部の面々。彼らの遠征に対する準備、キャラバン、登山活動が克明に綴られているのみだ。山以外のことは全くない、あくまで純粋なヒマラヤ遠征の物語。 しかし、それは単なるドキュメンタリーではない。谷甲州の筆力によって、それぞれの登場人物に血と肉が与えられ、生き生きと息づいている。まるで、著者がその場にいたかのような緻密な描写には驚かされるばかりだ。報告書や隊長への取材だけで、ここまで描ききるというのは、さすがというほかない。取材、構想に十年を費やしたというその歳月が、この重厚な物語を生んだに違いない。 序章、そしてクライマックスの登攀シーンは、やはりこの著者の真骨頂だ。ナンダ・コートの頂が、まさに目の前にそびえ、立ちはだかっているのを感じる。頂上直下の雪庇をピッケルで削り、『天につづく回廊』が開いたそのとき、目頭に熱いものが溢れた。登頂成功という結果が分かっているにもかかわらず、手には汗を握っていた。 「青年と沙漠」→【bk1】 望月勇 講談社出版サービスセンター 2002年 ローマでミケランジェロのモーセ像に会った”彼”は、サンタ・カタリーナ修道院を目指して、シナイ沙漠を一人歩くことを決める。当時、修道院へ向かう人はめったおらず、そのほとんどが車を使っていた。徒歩で沙漠を越えるなど、狂気の沙汰でしかなかった。一人黙々と歩くその旅は、彼の想像以上に困難を極めた。 著者が25年前、20代の終わりの時に書いた旅の記録。実体験だと思われるが、三人称で描かれて、私小説風。青年が沙漠を旅する話で、一見山と無関係なのだが、沙漠と山で何か通じるものを非常に感じたので、あえてここに載せることにした。 『沙漠には何があったろう。青い空と褐色の大地。あとは何もない。沙漠には、自分と自然、自分と宇宙があるだけで、何もないのだ。そうして沙漠には、自分の独白があるばかりだ。青年は、沙漠から深い内省を持ち帰ったのである。』(202ページ) この部分など、「沙漠」と「山」を入れ替えても十分通じるように思う。私はソロをやるわけではないのだが、雪の山の静寂の中で独り佇むとき、岩壁の中で独りビレイをしているとき、ただそこには、自分の独白があり、自己の存在のみがある気分になる。 彼は、サンタ・カタリーナを目指し、何日もの間、たった一人で砂の世界を歩き続けた。途中、足が動かなくなったり、血便を流したりしながらも、彼は歩き続けた。彼は、そこで沙漠の砂と太陽の炎により魂を浄化され、自分の存在を見つめ、宇宙を感じた。 そんな彼は、街に戻ってから、「沙漠の瞑想法」を実践しているという。瞑想をすることで、彼は自己の内側にある沙漠の存在に気づき、現実の沙漠に行くことがなくなったそうだ。「沙漠の瞑想法」があるのなら、「山岳の瞑想法」もあるのかもしれない。もし、私が自己の内側に山を見つけられれば、山に行かなくなるのだろうか。 果たして、山で魂は浄化されるのだろうか。(2002年6月4日) 「鎮魂花」 谷山稜 文芸社 2001年 製薬会社社員の谷川は、仲間二人と、2月の鹿島槍赤岩尾根を登っていた。夜、テントの中で、『山は孤独でなければいけない。(中略)山は男だけの純化された世界だとは思いませんか?女は邪魔なのです。』と語った。 それから数ヶ月が経ったある日、会社で落田香子という女性から声をかけられた。『私を山に連れていって下さい』と。 香子との山を重ねるうちに、谷川の中で、山は男だけの孤独な世界だという気持ちが揺らいできた。ある日、彼は裏銀座の単独縦走中に、激烈な体験をする。 山そのものをテーマとしており、その意味で非常に貴重な作品。 やりたいことは良く分かる。山を通じて、人生を語り、存在を語り、宇宙を語っている。そういう話は、個人的に非常に好みだ。しかも、それを登攀や冬山を舞台にするのではなく、誰にも馴染み深い夏山縦走でやってしまう、という力(発想)がすごいと思う。誰もが登れる山の裏側(内側)には、いつもは見えていない世界が内包されている、ということを気づかせてくれる。 著者は本当に山が好きなんだな、というのが伝わってくる。どういう山をどれくらいやっているのか、というのは、プロフィールなどにも書かれてはいないのだが、山の経験はかなり深そうだ。山の描写は美しいし、特に花や鳥が多く描かれているのが印象に残る。ところどころ、キラリと光る文章が出てきて、なるほどそういう考え方もあるな、と思わせたり、そうなんだよな、と肯いたり。 ただ、根本的な部分がどうにも納得いかない。特に、香子の存在だ。彼女はいったい何なのか。男の幻想とも言えるような都合のいい女で、とても現実的とは思えない。香子の内面描写がほとんどないため、結局なぜここまでするのかが伝わってこない。もちろん、あえて”謎の女”として描いているのかもしれないが、だからってこれじゃあまりにも、だ(単に好きだから、という理由じゃすまないだろう)。 谷川のやりたいことも良く分からない。『山に運命を委ねる』というのは、装備を全て捨てて、無闇に突っ込むことか?端から見たら、こんなの単なる無謀登山者でしかないよな、と思った。そりゃあ、自己の山の追究のためなんだから、他人のことなんかいっさい眼中にないのだろうけど。 結局、著者が一人で突っ走ってしまって、読者がおいてけぼりになってしまっているという感じを受けた。山と女、という究極の命題(?)に取り組んだ姿勢は評価できるし、(作中でも言及されているが)山岳哲学という、普段あまり表に出してこないものを、全面的に主題としているのは、とても好ましく思ったのだが。 もっと、谷川と香子の関係とか、香子の内面とかを掘り下げて、全体の分量を多くすれば、素晴らしい話になった可能性もある。少し惜しい作品。(2002年6月4日) |