小西政継関連書籍

小西政継略歴
 1928年東京都生まれ。会社の山岳部の山行で見た一ノ倉の岩壁に感動。19歳のとき山学同志会入会。本格的に山をはじめる。
 ≪第一期≫1967年28歳でマッターホルン北壁、冬期第3登。69、70年とエベレスト南西壁に挑むが登頂はならず。70年12月グランドジョラス北壁、冬期第3登。このときの凍傷がもとで両足指の全てと左手小指を失う。
 ≪第二期≫1976年37歳、ジャヌー北壁。山学同志会隊初登攀。80年カンチェンジュンガ北壁。隊としては6人の登頂者を出すが、小西自身は登頂を断念。82年チョゴリ(K2)。北稜初登攀。小西自身は遭難事故のため登頂断念。83年エベレスト南西壁。ルートを南稜に変更し2人が登頂するが、小西自身は登頂断念。
 ≪第三期≫1994年55歳、ダウラギリI峰、シルバータートル隊に参加し登頂成功。95年シシャパンマ中央峰、登頂成功。96年マナスル登頂後、7800m地点で行方不明。57歳。
(第一期〜第三期の区分は、「山と渓谷」1996年12月号の坂下直枝氏の追悼文を参考にしました。)

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「マッターホルン北壁」小西政継著
「グランドジョラス北壁」小西政継著
「ジャヌー北壁」小西政継著
「北壁の七人 カンチェンジュンガ無酸素登頂記」小西政継著
「砂漠と氷雪の彼方に チョゴリ登頂の全記録」小西政継著
「凍てる岩肌に魅せられて」小西政継著
「山は晴天」小西政継著
「ボクのザイル仲間たち」小西政継著
「栄光の叛逆者」本田靖春著
「限りない優しさの代償(「残された山靴」収録)」佐瀬稔著
「小西さんちの家族登山」小西郁子著
「ロック・クライミングの本」小西政継著 白水社 1978年(絶版)

「マッターホルン北壁」→【bk1】
小西政継 中公文庫 1967年(1979年)

『一メートル、一メートル、氷と岩を攀じるたびに喜びがよどみなくあふれ出てきた。一九六七年二月七日、午後五時三十五分、ぼくの手がマリア像の二つしたがえた鉄の十字架をしっかりにぎりしめた。十字架にビレーをとり、次々と仲間たちが登ってくる。二十分後には、僕たち三人は四四七七メートルの絶頂に立っていた。』

 山学同志会の小西政継、遠藤二郎、星野隆男、三名による冬期マッターホルン北壁(第三登)の記録。この快挙により、山学同志会、小西政継の名が世に知られることになる(1967年2月4日〜2月7日)。
 小西の文章は驚くほどうまい。表現が巧みである。
 「足元はとどまるところを知らない死の深淵があった。それにしても屹立する大絶壁の真只中を横切ってゆくこのトラバースは豪快そのものであった。僕はぞくぞくするような快感を全身に覚える。」など、こちらまでぞくぞくしてくる。それは、見たことも、体験したこともない世界であるが、なぜかその光景が眼前に広がるような迫力がある。
 当時、マッターホルン北壁を冬期に登攀するということだけでもすごいのに、彼は、途中でアイゼンをなくしたにもかかわらず、登りきってしまうという恐るべきことを成し遂げている。しかも、単にユマールで登るだけなのではなく、リードもしてしまう。「ゆるぎない闘志と、細心の注意でカバーすればなんとかなるはずだ。」と彼は言い、実行してしまうのだが、普通は、「なんとか」ならないと思う。その情熱とパワーに感服してしまう。
 また、本書は単なる登攀記録ではなく、報告書的な役割も担い、全体の三分の一ほどを食糧や装備、そしてテクニカルノートに費やしている。装備などは現在の状況とは異なる部分が多いのだろうが、当時様子を生々しく映し出し、その登はんの困難さをよりいっそう際だたせている。
 また、最終章「鉄の時代」は、彼のアルピニズムに関する考え方が述べられ、大変興味深いものとなっている。安易な方向に流れず、「われわれとしてはもう××ルートを何時間で登ったとか、小さい岩壁にボルトとハーケンを並べて初登攀などと喜んではいられないし、積雪期の大登攀でも、ひとつの登攀記録としてより、大きな目標への厳しいトレーニングであるという考え方で、この問題を打開すべきであろう」と言う姿は、今でも学ぶべき点が多い。
 本書のヤマケイクラシックス版には、「処女作にして最高傑作」という帯がついていたが、私もまったくそのとおりと思う。記録としても、山書としても、完成度は高い。

「グランドジョラス北壁」【bk1】
小西政継 中公文庫 1981年(1971年)

『暖かい陽光を全身に浴び、無言で目を閉じている仲間たちは今なにを思い、なにを考えているのだろうか。もちろんそれは喜びであり、幸福であるのかもしれないが、まず生命の匂いを嗅ぎ、張りつめた緊張感をゆっくりと解きほぐしているのであった。』

 アルプスで最も難しく、最も美しいといわれるグランドジョラス北壁に挑んだ、小西氏ら六人の男たちの記録(1970年12月22日〜1971年1月1日)。冬期第三登。
 冒頭に列挙される、グランドジョラスに関する記録の数々を読むと、彼の研究熱心さが分かる。ほとんどが原書のようで、その翻訳だけでも手間隙がかかっているだろう。
 前半はエベレスト南西壁への挑戦が描かれるため、実際のグランドジョラスの登攀に関する描写は全体の三分の一ほどである。しかしその短い中に、非常に濃い十一日間が詰まっている。
 ピッチごとに詳細なルート解説をするのではなく、その日一日の全体のクライミングを総括して、そこに状況や仲間の話を織り交ぜながら、話を進めていく技法が、さすがだと思う。
 12月29日など、一口のミルクと三粒のアンズ、それだけで、風雪吹き荒れる岩壁に取り付き、そして一日かけて伸ばした距離が、わずか40m。想像をまったく絶する恐ろしい世界だと思う。
 「手が欲しいなら、指を差し出そう。足が欲しいのなら、くれてやろう。しかし、呪わしいおまえを必ずたたきつぶしてやる!」という凄まじい気迫。そこに彼の岩壁にかける闘志がまざまざと浮き上がってくる。
 結局、彼はこの登攀で、凍傷で両手足十本を失った。
 また、この登攀には、植村直己も参加している。彼はこのグランドジョラスで、自分には岩壁登攀は向いていないと悟ったようだ。この後、水平志向に移り、グリーランド縦断などを目指すようになる。しかし、6人で27本の指が失われたこの登攀において、まったく無傷で生還した植村は、やはり只者ではないのだろう。

「ジャヌー北壁」【bk1】
小西政継 白水社 (1987年)

『感動も喜びもむなしさも、なにもわいてこない絶頂だった。(中略)ジャヌー七七一〇メートルにあったものは、個人的な一つの義務と大きな荒仕事をやっと終わらせた安堵感があるのみだった。激闘の末、この白く鋭い頂点にすっくと立ち上がり、こみあげる感動の波に酔い、からだを抱きあって歓喜した男たちがうらやましかった。』

 小西政継率いる山学同志会隊16名が、無酸素、全員登頂を目指し、7710mの怪峰ジャヌーへ向かう(1976年3月15日〜5月20日)。初登攀ルート。
 ヒマラヤ登山はキャラバンが長いのが特徴だ。隊の規模が大きくなるにつれ、機動力が落ちて、キャラバン日数も長くなる。キャラバン中は、登山というより「旅」であり、ただ歩きつづけるだけだ。本書前半は、キャラバンの描写が続いている。こういうのが好きな人もいるのだろうが、私としては苦手である。単なる旅行記は、あまり面白く感じられない。キャラバンを通して、隊員たちの個性などをアピールし、実際の登攀記録に厚みを持たせる効果はあるだろうが、隊員が16人もいると、一人一人まで覚えてはいられない。
 マッターホルン、グランドジョラスに比べて、隊が大きくなり日数が増えた分、物語として冗長な部分も目立ってしまう。固定ロープを頂上まで張り巡らして、ユマールで全員登頂を目指すというのは、今では古くさく感じる。それより以前のマッターホルン北壁登攀のほうが、ずっと現代的だと(私には)思える。確かにジャヌー北壁の技術的困難さは計り知れないものがあるだろう。そこに隊員全員が登頂するというのも驚くべきことだ。隊員のローテーションを考える作業を見ると、隊長の苦労も大変なものがある、と思う。でも、小西氏は、自らの登攀を文章にしたもののほうが、読みでがある、と思った。
 ちなみに、この「ジャヌー北壁」、絶版になったのかと思ったが、奥付を見ると「2000年5月10日第三刷」。わずかずつだが増刷しているようだ。私は、三省堂書店(オンライン)で購入した。

「北壁の七人 カンチェンジュンガ無酸素登頂記」
小西政継 山と渓谷社 1981年(絶版)

『ピッケルを支点としてテープをフィックスし、下の仲間にコールを送る。仲間が登ってくる間の約十分間、何を考えるということもなく、頂上に一人でいるのだという実感に包まれているだけだった。そして、もうこれ以上登らなくてもいい、やっと終わったのだ、と心の中でつぶやいた。(川村晴一)』

 世界第三位の高峰カンチェンジュンガ(8598m)の北壁を無酸素で挑んだ、小西政継はじめ七人の男たちの記録(1976年3月19日〜5月25日)。
 8500mを無酸素で登るのは、それだけで大変なものだと思う。しかも、その超高所で、壁の登攀をするというのだから恐れ入る。私がアコンカグアで息を切らしていたのが、6900m。歩くだけでも必死だった。ただ足を一歩踏み出すだけで、全身の力を振り絞らなければならない。そこからさらに1500m。そこで、シビアな登攀をするというのは、どれほどの緊張感だろうか。
 この本では、報道隊員磯川氏の記録や、その他の隊員の報告が随所に織り込まれ、小西氏からだけではない、複眼的な隊の様子が描かれる。その分人間関係がよく出てくるし、なかなか分からない隊員同士の軋轢なんかも、表現されている。ジャヌー同様、小西氏は、実際のトップにはあまり立たないが(それどころか隊員のローテーションにも口を出さない)、読み応えのある一冊となっている。キャラバンの描写もそれほど多くないし。
 小西氏自身は今回、8400mまで登って、登頂を断念した。体調不良が原因なのだが、頂上を目の前にしての、「勇気ある撤退」はなかなか出来るものではなく、その判断力は、素晴らしいと思う。

「砂漠と氷雪の彼方に チョゴリ登頂の全記録」
小西政継 山と渓谷社 1983年(絶版)

『第二キャンプで聞いたこの登頂成功のニュースはうれしくもなんともなかった。登山の成功は頂点ではなく、生きて帰ってきた瞬間なのだ。坂下、吉野、柳沢隊員たちの真の勝負はこれから始まるのだ。』

 エベレストに次ぐ標高を持つチョゴリ(K2、8611m)北稜遠征の記録。(1982年6月10日〜9月1日)
 今回は山学同志会ではなく、混成隊の隊長と言うだけあって、小西自身が実際に登る場面は圧倒的に少ない。隊長の苦労ばかりが偲ばれる記録となっている。
 登攀シーンよりも、遠征隊の裏側のごたごたのほうが印象に残ってしまう。たとえば、隊の中での報道陣の衝突・・・『隊員たちがこんなドラマチックな激闘を繰り広げていたこの期間中、(中略)最悪の事態にまで発展してしまった報道陣同士のトラブルの仲裁という、じつにバカバカしい用件を解決するために、(中略)ベースホームに下山し・・・』であるとか、精神的にバラバラになってしまったアタック隊・・・『彼らの中には僕たちの純粋な気持ちに対して「抜け駆け」という言葉まで使って反対した人もいる。自分が登れば「抜け駆け」ではなくなるのだろうか?僕には頂上がしだいに色褪せて見えてくるのだった。(尾崎隆)』であるとか。報告としても、なんだかすっきりしない。多分、実際その場に居ないと分からないことも多いのだろう。小西氏は、歯に衣着せぬ言質で、隊の裏側まで書いてくれるのだが、それでもすっきりしない部分が多い。
 登攀そのものも、天気さえ良ければすんなり登れる様に見え、あまり困難度を感じない。第二キャンプ設営後、悪天のため22日間も停滞を余儀なくされているが、もしそれがなかったらあっさり登頂していたのではないかとも思える。確かに、無酸素で登頂しビバークする場面は緊張が走るが、直前のアタック隊内での感情のすれ違いを見ていることもあり、なんとなく興ざめである。
 そもそも、こういう遠征隊の記録とかつてのマッターホルン、グランドジョラスの記録を比べても仕方がないのだろうが、やはりヒマラヤの記録には、物足りなさを感じる。手に汗を握って、次の行動にハラハラする、と言う緊張感が乏しい。個人的には実際にやるならば、高度順化を繰り返しつつじっくり登るヒマラヤ的な登山のほうに興味があるが、記録として、文章として読むのなら、アルプス速攻登山のほうが、読みがいある。
 小西氏も当時43歳、年相応に人間的も丸くなって、昔のような厳しい登攀は、難しくなり、文章が上手で、報告をまとめられる「隊長さん」におさまったと言うところか。書物の中の彼しか知らない私だが、なんとなく寂しい気がする。

「凍てる岩肌に魅せられて」【bk1】
小西政継 中公文庫 1971年(1998年)

『死との対決・・・。どんな超人的なアルピニストであっても、人間であるからには、”死”は誰しも恐ろしいことに違いあるまい。しかし、アルピニストというものは、死の恐怖を自分の心の強さと勇気で克服し、目標を遂行せねばならないものなのだ。』

 小西政継が山をはじめてから、グランドジョラスで足の指を失うまでの半生を回想する自叙伝。前半部分では、彼が会社の山岳部で初めて山を知り、19歳で山学同志会に入会。その後急速に岩の世界にのめりこんでいく様子が生き生きと描かれる。「マッターホルン北壁」以前の彼が、日本の山をどのように登り、なにを感じたか。早い段階で、ヒマラヤのバリエーションルートを狙いだし、海外の文献をあたって計画を練り上げていく情熱と実行力にはは素晴らしいものがある。当時の日本では、初登頂至上主義で、バリエーションを考えるような人間は皆無であった。そんな時代に、すでに日本を飛び越え、世界に目を向けていくのはなかなか出来ることではない。その考え方が、後の冬期マッターホルン北壁第三登に繋がっていくのだろう。
 「マッターホルン北壁」、「グランドジョラス北壁」の登攀に関しても、2冊の著書で描かれなかった部分も書かれて、興味深い。コンパクトにまとめられているが、彼の登攀の描写はやはり鬼気迫るものがある。
 他の山行記で書かれていないものとして、日本山岳会のエベレスト南西壁隊への参加に関する部分がある。当時小西自身は、山学同志会でのアイガー北壁を考えていたのだが、それを後輩に託し、エベレスト南西壁へ向かうことにした。結果としては南西壁登頂は失敗したのだが、この経験が彼の今後のヒマラヤ遠征での大きな糧となったのは間違いない。
 ラストシーンは彼の結婚式。このあと小西政継は、彼の山人生の第二ステージ、ヒマラヤ遠征のオーガナイザーとしての役割を果たすことになる。

「山は晴天」【bk1】
小西政継 中公文庫 1982年(1998年)

『――あんな苦しい思いをして、多額の金をつぎ込み、貴重な生命をかけてまで、山になぜ登るのか――と改めて問われても、僕には山を知らない人になるほどと理解させる説明は出来ない。未知への冒険の憧れ、危険や困難を克服する充実感、男の本能的な闘う快感、自分の弱い精神を危険にさらし打ち勝つ満足感。このように山に登る魅力はいろいろあると思うが、僕はこれについて云々することに興味がないのであっちへ置いといて、ただ山が好きだから――のみである。』

 小西政継の山に関するエッセイ集。他の著書で書かれていることの焼き直しや、新たに知らされる秘話などもある。時期的には、カンチェンジュンガ北壁を成功させ、チョゴリに向かう前に書かれている。
 話としては、章ごとにバラバラで、思いつくままに山を語る、と言う感じである。興味深かったのは、「山学同志会の改革」の章。会員の遭難、死があってもそれを乗越え、さらに厳しい山に向かうために、彼がどうやって同志会を作っていったかが描かれている。他の山岳会の会員とのザイル山行の禁止。新人は、ルートの難度に合わせてポイントを重ね、一定数のポイントにならないと正会員になれない。日本の岩場に固執するのではなく、世界のバリエーションルートを目指せ。こういう厳しい規律により組織を作り上げたからこそ、山学同志会の輝かしい記録が生まれてきたのだ、ということを納得させられる。
 その他、若いころの山行を回想したり、カンチェンジュンガ成功後のメンバーによる座談会(反省会)の様子などが収められている。

「ボクのザイル仲間たち」
小西政継 山と渓谷社 1987年(絶版?)

『より高く、より困難なアルピニズムを追求し、先頭に立ってリードできる力はボクにはもうない。人間誰しも年を取れば体力、精神力がおとろえるのは当たり前のことであるが、ふとさびしいなあーと感じはじめたのである。理想を目指し厳しくもあり、辛くもあったこれまでの長い歩みの中で、かかわりあってきた仲間たちの思い出を人生後半に入って整理し、ボクの新たなる出発点としたい。』

 小西政継が、今まで出会った10人の人物を語る。最初、対談集かと思ったのだが、そうではなくて、小西自身が一方的にその人の印象やエピソードを綴っていくという形になっている。そもそも、この10人の中で当時生きていたのが、パウラ・ビーナー、田辺寿、小西郁子の3人しかいないので、対談など成立するはずはないのだが。
 友人を語る、というのは難しいと思う。特に亡くなってしまっている人が多いので、余計に難しい。単純に「彼は凄かった・・・」と手放しに褒め称えるのではなく、さまざまなエピソードを交えながら、「あんなこともあった」「こんなこともあった」と綴っていく手法は見事だと思う。
 好きになったらとことん好きになり、嫌いな人とは口もきかない、と彼を表現した文章をどこかで読んだ。こうやって、好きな人のことを語れるというのは、まさにそういうことなのだろうと思う。
 人物を語る部分は、山とはあまり関係なく、山屋の下界での姿を描き出して、それはそれで面白かったが、個人的には「吉野寛/禿博信」の章で語られる「山学同志会無酸素エベレスト南稜1983」のシーンが興味深い。他の著書では語られない、空白の山行だけに、じっくりと読んだ。8800mまで登ってあと100mというところで下山しなくてはならないとは、運がないなあと思うが、そこで思いきって山頂に背を向ける彼の判断力に敬意を表したい。

「栄光の叛逆者」【bk1】
本田靖春 山と渓谷社 1980年(絶版)/本田靖春集 4(旬報社・2002年)に収録。

『この世の中で命がかかっていることは一つもありません。だから職場で一生を過ごすだけでは、本当に生きたとはいえないと思うんです。』

 ノンフィクション作家本田靖春氏が、小西政継の半生を描く。本田氏は「K2に憑かれた男たち」で、1977年のK2登山隊を描いたノンフィクションを書いた人物。登山に関してはまったくの門外漢。
 小西政継の幼少のころから、カンチェンジュンガ北壁までが描かれている。内容に関しては、はっきり言って小西氏自身の数々の著作を読んでいる人間にとっては、単なる焼き直しとしか見えない。著作からの引用も多いし、エピソードとしても今までに何度となく出てきたようなことが繰り返される。特に前半部分(生い立ちやマッターホルン、グランドジョラスなど)は、作者自身も本やインタビューに頼らざるを得ないことから、退屈に感じてしまう。
 そんな中、目を引くのは、夫人となる郁子さんとのエピソードだろう。やはりこう言うのは、本人はなかなか書きにくいのだろう。プロポーズの場面や足を失ってからの再起の話など、今までにない話が出てきて面白かった。
 カンチェンジュンガ北壁の場面も、作者自身がリアルタイムで取材をしており、「北壁の七人」に出てこないような話や、実際の遠征での小西氏の姿などが、遠征隊メンバーのインタビューなどで浮かび上がっており、「北壁の七人」と合わせて読むとより味わい深い。
 全体的に見ると、小西氏の著作を読んでいない人にはお勧めできるが、一通り読んでしまっていると、ちょっと退屈かも、と思う。

「限りない優しさの代償(「残された山靴」収録)」【bk1】
佐瀬稔 山と渓谷社 1999年(「山と渓谷」1996年12月号掲載)

『己れに対する厳しさと、他者への優しさ。今自分の力でも医学の力でも、その肉体をもうどうすることも出来ない夫(筆者注:佐瀬稔氏)にとって、小西氏は、彼を勇気づける灯台のような存在だったのだろう』

 1996年10月1日小西政継は、マナスル登頂後に消息を絶った。「山と渓谷」1996年12月号では、彼の追悼特集『鉄の人「小西政継」』を組んだ。そこに佐瀬稔氏の原稿も寄せられた。佐瀬稔氏は、それまでにも山田昇、長谷川恒男、森田勝などの登山家の人生を見事に描き出した、迫真のノンフィクションをいくつも発表している。その佐瀬氏も1998年5月に病死した。遺稿集に小西氏の最期、マナスル遠征に関する原稿が収められている。
 そこに描かれるあまりにも弱々しい小西氏の姿に唖然としてしまう。これがあの「鉄の男」なのだろうか。「ボクのザイル仲間たち」で書かれたエベレスト遠征以降の彼を知らない私にとっては、突然の変貌に驚いてしまう。「体の調子がよくない」「ああ、疲れたなあ」「おお、そうか」。彼の言葉の一言一言が重い。当時小西政継57歳。寄る年波は着実に彼の体力を蝕んでいたようだ。
 本当に短い原稿なのだけれど、佐瀬氏の描く小西政継は、その優しさを十分に表現してる。インタビューと事実を積み重ねているだけなのに、小西氏の人間性が浮かんでくるようだ。佐瀬氏の手腕はさすがだなと思う。マナスル以前の小西氏をまったく知らない人が読んでも、その人間性に心打たれ、涙を禁じえないのではないだろうか。
 遺稿集の最終章には、夫人の手による佐瀬稔最期の時期が描かれている。その中に『くたばらないぞ。年内に小西政継の本を書くぞ、ビールをぐびぐび飲んでやる』という佐瀬氏の言葉が出てくる。是非書いてもらいたかった。佐瀬稔による小西政継の人生。間違いなく素晴らしいものになっただろう。本当に惜しまれる。佐瀬氏の死も、小西氏の死も。

「小西さんちの家族登山」【bk1】
小西郁子 山と渓谷社 1999年

『僕がどん(筆者注:郁子夫人のこと)に望むことは、おしゃべりでも、わがままでも、悪妻でも一向に構いませんが、一年、一年、どん自身がすこしでもいいから、なんらかの面で人間として成長しようという努力をしていってもらえば充分です。そうすればより素晴らしい女性にきっとなってゆくはずだから。許す範囲でやりたいことをやってよろしいということ。』

 小西正継の死後、奥様によってしたためられた、父親としての彼の姿。
 予想されたことではあったが、小西氏の厳しい面はほとんど描かれない。あくまでも優しく、よく気の付く、面倒見のいい父親の姿が描かれている。
 どちらかというと、本書の半分くらいは「郁子さんの子育て日記」という感じがする。(子供が)生まれた、立った、歩いた、入学した、とそんなことが綴られている。そこにはほとんど父親の姿はない。読んでいて、その育児描写の多さに違和感を感じたのだが、最後まで読み進めて納得。この本は、彼との約束で、子供たちに贈るためにかかれたものである、とのことであった。確かに、この本の内容が自分のことであったとしたら、その意味は大きいだろう。両親の愛情が詰まった本である。
 さて、この本で目に付くのは、なんといっても小西氏の手紙の多さである。しかも、そのほとんどが奥様によって保存されているらしいというのも驚きである。二人が出会うきっかけとなったのは、アイガー北壁に関する本を郁子さんが小西氏から借りたことにある。そのときのお礼状の返事から始まり、各遠征の現地からのレターなど、(おそらく)そのままの形で掲載されている。一通一通の手紙もずいぶんな長さがあり、遠征の様子が克明に描かれている。これら一連の手紙を読むと小西氏の筆まめさと、家族への愛が伝わってくる。字の読めない子供たちにもちゃんと書いてあげているのは素晴らしい。
 月並みな表現だが、小西氏の厳しい登山の裏には、家族の愛があった、ということを認識させてくれる一冊。



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