競う ライバル物語
「山に生きる登山家夫婦の絆〜
山野井泰史Vs山野井妙子」
のまとめ



2004年3月29日(月)から4月2日(金)まで産経新聞に連載された記事を引用を含めつつまとめてあります。
・「memo」は囲みの解説記事。
・記事の執筆は、特集部の村島有紀。


※この新聞連載の内容は、「新ライバル物語 第2巻」(柏書房・産経新聞特集部)として単行本化されました。→【bk1】/【amazon】(2004/10/13追記)

第1回(2004年3月29日掲載)
タイトル:『魔の雪崩から奇跡の生還』『命救ったコンビネーション』
ギャチュンカンの顛末。
2002年10月8日の登頂から13日の生還までの様子。
生死が隣り合わせの世界で生きる日本最強の登山家夫婦。
登山家としての技量と精神力、一流のクライマーと互いに認め合う二人が絶妙のコンビネーションで最悪の状況を脱した"奇跡の生還"だった。
二人のプロフィール。
memo:■アルパインスタイル

第2回(2004年3月30日掲載)
タイトル:『幼少期に出会う異なる"頂"』『意味ある死、居場所求め第一歩』
二人が山を始めるきっかけ。
ギャチュンカンから生還して、両親と対面。
「登山家の子どもを持つというのは、ほかのスポーツ選手とは違うつらさがある」(泰史の父)
泰史が山の魅力に取りつかれたのは、山岳映画「モンブランの挽歌」を見たのがきっかけ。メスナーの新聞記事を切り抜き、小学校の卒業アルバムに「無酸素でエベレストに登る」と書いた。
水害の多い地で生まれた妙子は、親友と中央アルプスに出かけたことが山との出合い。「くたくたになるまで山に登ることで、幼いころから感じていた居心地の悪さが消えていき、自然な自分になれた」
memo:■水害の歴史■ラインホルト・メスナー

第3回(2004年3月31日掲載)
タイトル:『「登ろう」-相通じた思い』『夫の言葉に奮起「夢」実現』
二人の出会い。
1990年日本ブロードピーク遠征隊の準備会合で初めて出会う。
半年にわたる準備期間を通じて、二人はいつしか「自分とよく似た感覚の人だな」と思い始める。
その後、マカルーで凍傷を負って入院中の妙子を見舞ったのが泰史。奥多摩で一緒に暮し始める。
岩登りはもうできない、と思っていた妙子だったが、泰史につられて、再びクライミングの世界へ。
チョ・オユーの単独アルパインスタイルでの新ルート開拓により、泰史は世界で五本の指に入るトップクライマーの一人に数えられるようになる。
memo:■高山病■凍傷

第4回(2004年4月1日掲載)
タイトル:『純粋で満ち足りた生活』『必要以上のものは求めない』
二人の日常の生活。
「エベレストは、僕にとってやさしすぎる」泰史は、限界ぎりぎりの登攀をしているときに「生きている自分を感じられる」。"安全"になったエベレストには魅力を感じない。
妙子は、世間へのアピールや名誉を求めない。その登山の姿勢を泰史は「かなわないな」と思う。
衝動にまかせ、がむしゃらに登り続けた泰史は妙子と一緒に暮すことで安らぎを得た。競い合うのは、「どれだけ山が好きか」という純粋さ。
壮絶な登攀スタイルとは逆に、普段の生活は「清貧」。
月々の支出は十二、三万円。シンプルで満ち足りた"スローライフ"を実践している。
memo:■スローライフ■アルピニズム

第5回(2004年4月2日掲載)
タイトル:『真っ白になるまで登りたい』『復活目指し今秋新たな挑戦』
ギャチュンカンの後、そしてこれから。
母校の高校で自分の体験を語る泰史。「人と同じでなくてもいいから、自分の信じる道を歩いて」
「朝日新聞スポーツ賞」「植村直己冒険賞」を受賞するが、「もし、事故もなく帰ってきたら、今までの山と変わらないのに」「自分の評価と他の評価が一致したらすごい幸せだろうな」と寂しげに話す泰史。
なぜ山に登るのか。「登山はスポーツというより、どちらかというと芸術に似ている」と泰史はつぶやく。
「おれたち、真っ白になるまで登り続けますよ」
今秋、泰史は、中国四川省の1000mの大岩壁で再起を賭ける。妙子は、友人の女性クライマーと5000m峰を目指す。
一人では帰れなかった壁から生還し、復活を目指す二人。それは、山に憑かれた一組の夫婦の人生をかけた戦いでもある。
memo:■植村直己冒険賞■垂直の記憶





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