ヒマラヤは憧れだ。
山を志す者は、必ずヒマラヤに行き当たる。登ろうと思うかはまた別の問題にしても、「ヒマラヤ」という言葉を聞かずに山を続けることはできない。否が応でも、ヒマラヤは眼の前に立ちふさがる。
白き峰々。世界最高峰を含むジャイアンツたち。伝説のクライマー。チベット文化圏。シェルパという人々。
ヒマラヤという響きに内包されるものは多い。ヒマラヤと聞いて、思い描くものは、人それぞれ違うのではないだろうか。
山を続けていくと、ヒマラヤという言葉に触れる機会は多い。それは、初登や再登の記録であったり、美しい写真であったり、映画であったり、テレビの映像であったりする。
私の場合は、「神々の山嶺」という一冊の小説であった。
私のクライミングは、全てそこから始まったといっても過言ではない。
この小説には、エヴェレストのバリエーションルートの壁を冬季に単独で挑もうという男が出てくる。彼は、伝説の天才クライマーと呼ばれていた。
そして、それを追うカメラマンの姿。彼は、山に対して、悩んで迷う普通の人間。その対比が見事であった。(詳しい感想はこちら)
その小説にこんな描写が出てくる。
『宇宙が、そこにむき出しになっているような凄い星空』(「神々の山嶺」集英社文庫(以下同書より引用)上p135)
『深い氷の裂け目の中途から見上げる空は、青かった。黒いほどに青い。』(下p295)
『思わず、息の出そうな景観の中に、いきなり深町の身はさらされた。地上ではなく、いきなり、宇宙のただ中へ放り出されたようであった。頭上に、銀河がかぶさっている。』(下p310)
『青い空、しかし、ただの青ではない。その向こうに、宇宙の黒が透けて見えている。黒いような青。』(下p444)
繰り返し出てくる、青ではなく、「黒い空」という描写。
そんな世界を見てみたいと思った。地上にいながら、宇宙を感じられる場所。それこそ、神々の領域に相応しい世界だと思った。そして、そんな場所に立ってみたかった。
私にとってのヒマラヤは、そういうイメージの中にあった。神々の棲まう世界。宇宙を近くに感じられる世界。それこそがヒマラヤだった。
もちろん、行くからには、頂に立ちたい、壁で自分の力を試してみたい、そういう希望もあった。しかし、それには時期とタイミングの問題がある。
見るだけでもいい。神々の世界の中に、自分を存在させてみたかった。
そこに立つことで、自分の中の何かが変わるような気がした。
自分の持つ世界が広がるような気がした。
そう、変わりたかったのだ。ヒマラヤに行くことで。
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