「北壁」
石原慎太郎 二見書房(山岳名著シリーズ) 1971年(絶版)
一つ一つが読み応え十分な中短編集。現在都知事の石原慎太郎が、「太陽の季節」で芥川賞を取ったころに書いた、山に関する小説が四本収められている。ちなみに、角川文庫版「太陽の季節・若い獣」(1959年。これも絶版)には、このうち「北壁」「それだけの世界」が収録されている(同書収録の「透きとおった時間」にもほんの少しだけ山が出てくる)。
「北壁」
アイガー北壁がまだ未登だった時代、その壁に挑んだウェスリングをはじめとする四人の男たちがいた。雪崩、落石、そして極限のビヴァーク。アイガーは、容赦なく彼らに襲いかかってきた。ウェスリングの妻クリスは、北壁の見えるホテルの壁から、主人の姿を見つめていた。そんな中、メンバーの一人が落石を頭に受けた。それにも負けず彼らは前進を続けたが、壁に入って三日目、ついに敗退を決める。しかし、彼らにはさらなる過酷な試練が待ち受けていたのだった。
この物語は、アイガー北壁で起こった現実の事件をモデルにしているらしい。アンデルル・ヘックマイアーの「アルプス三つの壁」を題材としているようだが、私はその著作を読んでいないし、実際の事件の顛末も知らないので、どこに脚色があるとか、どの辺がそのまま引き写しであるのかということは分からない。
アイガーがほかの山と最も異なるのは、壁の様子が下界からよく観察できるという点ではないだろうか。望遠鏡を使えば、登攀者の姿はすぐそこに見える。しかし、実際の距離はあまりにも遠く、決して手を出すことのできない空間がそこに横たわっているのだ。そこにドラマが生まれ、悲劇が引き起こされる。
山岳小説としては、かなり本格的なもので、話として(表現として不謹慎であるが)面白い。
比喩、表現、文章のリズムなど、さすがに作家として身を立てているだけあって(今は都知事だが)、読み手をうならせるものがある。こういう「言葉の使い方」は、山を登っているだけでは、身に付かないものだ。そして、物語は緊張感を保ったまま、衝撃のラストを迎える。あまりにも悲劇的な結末は、これが現実に起こったことであるからこそ、悲しみが倍増する。中編として、この事件に絞って書いているのがまたよい。ぎゅっと濃縮された、密度の濃い小説になっている。
「谷川」
共栄商事に勤める津田は、会社の利益のためなら、多少卑怯なことでも平気でやってしまう男だ。そして、その強引ともいえるやり方で、業績を伸ばしてきた。今、彼はまた重大な取引を目の前にしていた……。
安川茂雄の「回想の谷川岳」を著者が読んで、イメージを想起されたという作品。これもまた、もとネタを読んでいないので、どのあたりに安川氏の著作が生かされているのかは分からない。
正直、ひたすら続くサラリーマン描写は、辟易させられた。会社の利益追求のために邁進する会社員の姿は、見ていて苛立たしいばかりだ。心理戦、駆け引き、接待、そういうことに私は全く価値を感じない。
しかし、その”タメ”が後半で一気に花開く。
ある日届いたクライマーからの手紙。それはかつて津田が初登したルートを自分も登ってきた、という内容だった。
『---F3での最悪のトラバースの時、テラスの上方の裂目に貴方が打残されたハーケンを見つけました。調べた上、可能と見てこれを使いながら前進したのです。』
私にはこんな経験はないが、ここを読んで全身が震えた。言い知れぬ興奮を味わった。自分が残した踏み跡を辿ってくる顔も知らぬ人がいる。それは、震えるほどの興奮でないだろうか。
会社のため身を粉にして働き、山のことなどすっかり忘れていた津田は思う。『俺は、俺は一体今何をしているのだ』
それは、読んでいる自分に突きつけられた刃。---俺は一体今何をしているのだ。これは、「神々の山嶺」を読んだときの想いに通じるものがある。あの物語で、主人公深町が抱えていた焦り、もどかしさ、羽生丈二への憧憬、そんなものが凝縮されて、この中にあると感じた。
会社の思惑に翻弄されるサラリーマンとしての姿と、総てから解放されてただ岩を攀ろうとするクライマーとしての姿、その対比が鮮やかである。そしてまた、そこに深みを添えるのが、早枝子と言う津田の婚約者の存在だ。不治の病を抱える早枝子を見つめることで、仕事に対する思いはますます空虚さを増してくる。
『しかし、俺は死にに行くんじゃない。生きるために行くんだ、生きるためにもう一度俺のなにかを取り戻しに行くんだ。』
そして、津田は再び谷川を目指す。
「それだけの世界」
ガイドとともに初登を目指し第三ルンゼに入った”私”は、二度のスリップを起こし、敗退を決意した。”私”は失意の中での下山中、一人の男を目撃する。その男は、道端の岩に片足をかけたまま、岩壁をひたすら見つめて立っていた。焦燥と、怒りと、悔恨と、敬虔な祈りを込めて、ひたすらに岩壁を見つめて立っていた。”私”は、ガイドからその男の物語を聞いた。それは、壮絶な悲劇であった。
話としては良くあるものだ。「ロープを切るか、切らないか」
パートナーが落ちて、そのロープを切れば自分が助かる。しかしパートナーは死ぬ。そこでの葛藤。これは山でのフィクションの永遠のテーマなのかもしれない。小説、漫画、映画、必ずといって良いほどこの手の話は出てくる。そして、物語のなかではこういう場合は必ず「切る」という決断を下す。そのために、ロープを切った男は一生をかけてその十字架を背負い続けることになる。
もしも、自分がその立場に立ったとしたら、と考える。だが、いくら考えても、机上の空論では答えは出ない。状況を判断し、二人とも助かる方法を何とか考え出したいものだと思う。しかし、現実にこういうことは起こりうるのだろうか。
中心となるのはこのワンテーマながら、さすがに肉付けがうまくなされており、非常に読ませる。主人公の”私”が、かつて見てきた山での死の数々、そして、”私”の死への想い、そんなものがエッセンスとしてうまく利いている。男が一言もしゃべらず、ただ岩を見つめているだけというのも、心に残り、印象的だ。
タイトルの「それだけの世界」には、「それだけの(ものがある)世界」と「それだけの(ものでしかない)世界」という二つの意味が込められている。それもまたうまいと思う。
”私”は想う。
『私はそれらの死を知っている。そして信じもする。唯、一人自分の上にだけはそれを信じないだけだ。登攀者の誰が登攀に関して己の勝利、己の生以外を知っているだろうか。がそれを知りつつ、彼らは敗れ、墜ちていくのだ。』
石原は、山を知らずになぜここまで書けるのか、まったく彼の才能には舌を巻く。
「失われた道標」
美子の夫、裕介が会社の社長の職務を放り出し、突然失踪した。美子を始め、失踪の理由を知るものは誰もおらず、捜索は行き詰まっていた。失踪から十日、裕介らしき人物を松本で見かけたと言う情報が入った。その人物は本当に裕介なのか。何故松本なのか。重責を投げ出してまで山に行ったというのか。
前半は裕介の失踪を巡るミステリー仕立てで話が進む。山のことは全く出てこないが、ストーリー展開が巧みなので、それはそれで楽しめる。仕事が原因なのか、女が原因なのか、考えられる失踪の原因は次々に潰され、それでは、いったいなぜ姿を消したのか。先が気になり、ページを繰る手は止まらない。
この作品に関しては、あまり多くを語らない方がいいだろう。山小説である、と言うことさえ、知らずに読んだ方がインパクトは強い。中盤まで全く山に触れられないので、この展開には驚かされた。そのことで、山を知らぬものにとっては、その唐突の”山”の出現が、奇異に感じられるかもしれない。しかし、著者は、その理由に関しても、はっきりと答えを提示しているため、納得できる展開となっている。こういうところで、逃げることなく正面から向き合っている著者の姿勢が素晴らしいと思う。
『ここにおれがいるから、山に登るんだよ』
「神々の山嶺」の羽生丈二の台詞の原型はここにあったのかと思った。
「谷川」と双子の兄弟のような物語だ。シチュエーションがよく似ている。サラリーマンの平凡な日常、その心のうちに秘める山への想い。そして、ある事件がきっかけでその想いが沸点を超えてしまう。
「失われた道標」の裕介と「谷川」の津田、二人の主人公に思い入れを持てるほど、これらの作品は、自分の胸に突き刺さってくる。
石原慎太郎は、あとがきの中で、『登山にしろヨット競技にしろ、自然と人間の相剋の劇における主題は「存在感」である。』と語っている。私は、海のことはほとんど知らないが、海と山はある意味非常に似通った世界なのかも知れないと思った。石原は、山は登っていないが、海を知っている。だからこそ、これだけの世界が物語れるのだろう。
場を盛り上げる舞台として山が出てくることはよくあるが、山に対して正面から向き合う小説というのはなかなかない。私は、後者の小説の方が好きだ。後者の代表的なものとしては、夢枕獏の「神々の山嶺」があげられるだろう。「谷川」や「失われた道標」を読んでいて、「神々の山嶺」が想起されるようなシーンもいくつかあった。純粋に、一途に山を見つめていると、同じところに行き着くのかもしれない。
山と本気で向き合っている文章は、読者に対しても相応の覚悟を迫ってくる。こちらの心を揺さぶってくるからこそ、物語の実感が湧いてくるものだ。
これだけの文章を山を知らぬ著者が書けるというのが本当に素晴らしい。いくら海を知っているとは言え、ただ多くの資料を読んだだけでは、道具の使い方はおろか、こういう山屋の心意気みたいなものは、分からないのではないだろうか。そこに、石原慎太郎の非凡さがあるのだと思う。
絶版なのが非常にもったいない。復刊を熱烈希望。(2002年6月27日)
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