「充実感と喪失感」
北鎌尾根

2001年5月1日(火)〜2日(水)
メンバー:三堀、神谷(記)






『槍の偉大さを支えるものは、そこから見て、北と南に張り出している尾根であった。その中でも、北鎌尾根こそ、槍のいただきにせまるもっとも、厳粛な尾根に見えた。北鎌尾根こそ、槍の存在を価値づけるものであり、北鎌尾根を無視したら、槍はないもの同然に考えられた。

(「孤高の人」新田次郎 新潮文庫)


条件が良すぎて、あまりにもすんなりと登ってしまった北鎌尾根。
憧れ、夢見、畏怖を抱いていた北鎌だったが、あっけなく登ってしまった。

感動はした。独標に登りきって、槍の姿が目に入ったときに。
充実もしていた。雪もあって岩もある、アプローチにも苦労した槍への道。
しかし、歩いていくうちに、だんだんと槍が大きくなりにつれ、
「これで終わってしまうのか」
という奇妙な感覚を味わっていた。
思い入れが強かったせいもあるのだろう。
こんなに簡単に北鎌は終わってしまうものではない、と思いたかった。
しかし気づくと北鎌平。
もう目の前に大きな槍の穂先が見える。あと1時間はかからないだろう。
できることならここで留まりたかった。
実は、今見えている槍は偽物で、本当の槍までにはあと2泊ぐらいかかるものだと思いたかった。

最後の岩場に手をかけた。
ロープを出す必要もない。
雪の付き方も理想的だし、あっという間に高度を稼ぐ。
ラストピッチは三堀とトップを代わる。
しばらくして、三堀の叫び声が聞こえた。
もう、着いてしまったのか。
もう、終わってしまうのか。

行くしかない。一歩一歩噛締める。
見慣れた祠が目に入った。
最後の一手。
二人しかいない絶頂で、手を握る。
振り返るとガスの中に長大な尾根が。
やり遂げた、その充実感。
終わってしまった、その喪失感。
槍の頂上。そこには、充実感と喪失感があった。


5月1日(火)
 アプローチが核心
 それは、どこを見ても書いてあった。水線ぎりぎりの一枚岩のトラバース朽ち果てた桟道、ガレ場の高巻き、そして渡渉。数々の不安要素の中でも特に渡渉が気になった。膝下とも胸までとも言われる渡渉。まだ雪の残る5月に、冷たい沢に足を浸ける勇気があるか、そしてその濡れた身体で行動できるのか、全く想像できなかった。北鎌は登りたい。でもアプローチは嫌だ。そんなことをずっと思っていた。

 高瀬ダムまで入れるようになったタクシーで、信濃大町を出る。ダムで下りたのは、ARIの3人パーティと、同乗した単独行者。単独行の人は、硫黄尾根に向かうとの事。北鎌へは、ARIと我々だけ。昨日は雨だったので入山者はなかったが、連休の最初には、すでに14−15人くらいは、北鎌に入っているとのこと。引き返している様子はないようなので、少なくとも進行が全く不可能ということはなさそうだ。「岳人」1999年1月号にあまりにも困難で引き返さざるを得なかった、という投稿が載っていたが、そこまでではないのか。

 4時間かかるといわれていた湯俣までの道も2時間で到着。出だしは好調。
 まずは吊橋を渡って左岸へ出合のつり橋。ザレや河原歩きは問題なく通過。そして、「岳人」に載っていた「敗退トラバース」に到着。かなり長く続いていて、遠目では分からないので、とりあえず空身で私が様子を見に行く。古いがしっかりした鉄の棒が打ち込んであり、要所要所にはフィックスロープがセットしてある。ロープは丈夫そうで、すぐに切れそうには見えない。体重をかけても大丈夫そうだ。フィックスがなかったら、かなり厳しいところもあり、終わり近くは鉄の鎖で、ぶら下がるような形で通過せざるを得ない部分もある。フィックスがなく、フリーでシビアな箇所もあったが、ザックを背負っても何とかいけそうに感じた。トラバースの終点まで様子を見て引き返す。その間に後続ARIが追いついてきたようだ。彼らはその場で渡渉をするようで、靴を脱ぎ始めている。
 我々はトラバースを試みる。やはり空身とザックを持った状態では感覚が違う。さっきは、らくらく通過できたところも、バランスがうまく取れず苦労するかなりシビアなへつり。それでも何とか渡りきった。ARIは、まだ渡渉をしている。この精神的疲労を考えると、渡渉のほうが楽そうにも思える。今日は、気温が高いし、それほど寒そうではない。

 その後も、フィックスロープによる振り子トラバース気味の水線ぎりぎり渡り水線通しのトラバースや、懸垂下降したくなるくらいシビアな下りの待ち受ける高巻き、などをヒイヒイ言いながら通過する。振り返ると、ARIはことあるごとに渡渉しているようだ後続ARIパーティは渡渉3−4回かそれ以上渡渉しているのではないか、こちらから見ると渡渉のほうが早そうなのだが、なんだか手間取っていて、時間がかかっているようだ。
 第二吊橋跡は、スノーブリッジにより通過。先行者が踏み抜いたのか、下がのぞけるような穴があいているところもあったが、まだしばらくは崩れそうではない。右岸に渡り、高巻きの道をトラバース。
 千天出合には指導標がある。左からの涸れ沢を越えた辺りから、渡渉地点を探す。ここまで、渡渉なしで来たけれど、第三吊橋跡での渡渉は覚悟していた。しかし、なぜだか新しい倒木が川をまたぐように倒れていた。切り口も人工的ではないし、まだ青々としている倒木なので、最近自然に倒れたのだろう。人が乗っても全く問題ない。ありがたく渡らせてもらうP2取り付きまでは倒木で渡る
 結局渡渉をせずにP2の取り付きまで来てしまった。全く予想外の展開だ。確かに厳しいトラバースもあって、渡渉のほうが楽そうにも思えた。途中のトラバースはともかく、第二吊橋跡、第三吊橋跡の必ず対岸にわたる必要がある場所では、渡渉はあるだろうと思っていた。しかし、それもスノーブリッジや倒木により回避できた。今日は天気も良く、身体を濡らしてもすぐ乾くだろうが、いつもそういう条件に恵まれるわけではない。厄介な問題をひとつ解決したようで、この時点で、ほとんど北鎌は終わっていたのかもしれない。

『雪の消えた事オドロクばかり、P2の側稜はまるで五月山で、地肌さえ出ている。P1との間の沢へ入って中間の側稜を登ったが、非常に苦しかった。』(昭和23年12月23日)
(「風雪のビヴァーク」松濤明 ヤマケイクラシックス)


 P2の取り付きには慰霊碑があり、幕営に適した広い場所であった。この時点で十分余力があり、時間も余裕があったので、今日中にP4あたりまで進むことにする。
 初日であり、食料も何も減っていないザックは身体に食い込み、P2までの直登は、厳しいものであったP2へのアップフィックスロープがいたるところにあるが、ほとんど腐っていてとても使えるようなものではない。しかし、ちょうど手でつかみやすいところに木の根があったりして、それを利用して身体をぐいぐいと引き上げる。その木の根はみんなが同じように使うためだろうが、てかてかに光っている。もしかしたら初登のときから使われているのかもしれない。もしかしたら松濤明も握ったのかもしれない。そう思うと、胸が高鳴って、疲労も吹き飛ぶようであった。
 P2の肩にもテントが張れそうだったが、さらに先へ進む。

 P3への登りは厳しかった。雪のついたかなりの斜度のアップ。しかも午後になり、雪はグズグズに融け始めている。体重をかけると沈み込み、身体を持ち上げることができない。もがくように泳ぐように進む。通常の何倍も体力を消費するようだった。
 何とか雪のアップが終わり、P3下の岩場に着いたときには、もうへとへとであった。P4は、見えているが、あと1時間くらいはかかりそうに思えた。時間的には可能だが、場所もあるので、ここで幕営とする。崖っぷちだが、2人用テントくらいなら十分に張れるP3直下で幕営
 夜、天気図を書く、明日は快晴とはいかないが、荒れるようには思えなかった。台湾辺りで雨になっているので、低気圧が発生しそうに思ったが、その影響はすぐにはないと判断した。だから、天気予報はあえて聞かなかったのだが。

5月2日(水)
 朝、雲が多い。全く寒くはない。
 出だしの岩は難しくはない。アイゼンなしで進む。
 独標が大きく見える。岩稜帯で、時々雪のところもあるような感じだ。
 P4を越えたコルでアイゼンをつける。このあたりは幕営に適した平らな場所が多い。
 P5は、天上沢(進行方向左側)をトラバースして、ピークは通らない。雪斜面のトラバースで、トレースはばっちり付いているのだが、雪は腐っており、油断すると胸くらいまでは埋まってしまいそう。左側は切れ落ちているので、滑ったら、天上沢まで一気に落ちるだろう。ちょっと怖いグズグズの雪のトラバースは怖い
 P5P6のコルで、千丈沢側(右側)へ移る。P6手前は、脆い岩の岩登りがあって、ちょっと緊張する。落石が怖い。
 P6のピークで幕営したパーティがあったようで、整地されていた。しかし吹きさらしの場所なので、強風が吹いたら飛ばされそうだ。そういえば、昨日からほとんど風がない。暖かく感じるのもその影響が大きいのだろう。
 P7からの下りでロープを出すP7の下降は懸垂で。過去の報告で、ここで懸垂したというものがあったので、慎重に進んだ。フリーでも行けなくはないが、岩が脆く落石が怖いので、念のために懸垂。15mほどであった。
 8時。北鎌のコルを通過した辺りから風が出始めた。天上沢方面からの風。昨日は午前中は快晴であったのだが、今日は朝から曇り。時折太陽が顔を覗かせるが、日射があるほどではない。
 P8へのアップは雪の斜面。こういうところは、ダブルアックスが効く。雪は悪いが、さくさくと高度を稼ぐ。姿は見えないが、先行者も多いようで、完全につぼ足。

『加藤文太郎はしばしば、槍ヶ岳から目をはなし、そしてまた槍ヶ岳へ眼をもどした。槍ヶ岳だけが、加藤の到来を心から迎えている山に思えてならなかった。』
(「孤高の人」新田次郎)


 独標を越えたところで越えたところで、視界が一気に開ける。思わずうめいてしまう。槍のあの特徴的な二等辺三角形が見えたのだ。北鎌尾根を、まさに今踏みしめているという実感がわいてきた。あと少しだ。体のそこから力が湧き出す。
 独標を越えると、岩が多い。トラバースのときにたまに雪が出る程度独標を越えると岩稜帯。難しい岩登りではないが、アイゼンをつけているので、バランスには要注意。

 北鎌尾根最大の危機は、P13付近で休んでいるときに起こった。ザックをおろし、そこに腰掛けようとすると、何故か感触がない。あれあれあれ、と思う間に体が頭から一回転した。ちょうど後転をする形だ。天地がひっくり返った。息が止まった。後ろは切れ落ちた岩場だというのは分かっていた。夢中で岩をつかんだ。脆い岩だ、最初の岩はすぐに動いた。2個目3個目を次々に探す。ようやくしっかりした岩を探り当てた。身体は固定された。落ちかけたザックは、顔で受け止める。人は、本当の危機に出会ったときには、声も出ないものだと思った。ほんの数秒のことだと思う。無言だった。呼吸が止まり、世界がスローモーションで動いていた。安全なところまで戻って、今落ちかけたところを見直す。まさにギリギリだった。あそこで止まらなければ、100mくらいは千丈沢側へ岩場を転がっていただろう。100m下には、ちょっと平らなところがあるので、そこで止まりはしただろうが、ただじゃすまなかったと思う。危うしである。油断禁物。

 気を取り直して先を急ぐ。
 P15は、平らで幕営に適した場所だ。一瞬北鎌平かと思った。
 もう、槍は目の前だ。

『天狗のコシカケヨリ ドツペウヲコエテ 北カマ平ノノボリカゝリデビバーク。カンキキビシキタメ有元ハ足ヲ第二度トーショーニヤラレル.』(昭和24年1月4日)
(風雪のビヴァーク」松濤明)


 そして北鎌平。ちょっとガスっぽくなってきた。微かに雪もちらつき始めた。
 もう、終わりなんだ、と思いつつ、最後のアップを登り切る穂先への最後の岩場

『黒い槍の穂は下から見れば近いがなかなか時間がかかる。もちろん三、四月頃の岩に雪が凍り付いて真白になったときは岩登りの下手な僕にはとても登れないだろう。槍の頂上、なんとすばらしい眺めよ。あの悲しい思い出の山、剱岳に圧倒されんとしてなお雄々しく高く聳えている。感慨無量。』(昭和5年1月26日)
(「単独行」加藤文太郎 二見書房)


『加藤は北鎌尾根の下り口までいってみた。大きな岩を抱くようにして廻りこんで行く道には雪がぎっしりつまっていた。その岩陰を通って北鎌尾根へ出ることは危険だと考えながらも、その道は行きたい道だった。』
(「孤高の人」新田次郎)


 頂上には、「キタカマ」と書いた岩があったはずだ。でも見当たらない。消してしまったのか、落ちてしまったのか。
 しばらく感慨を楽しんでいると、中高年のパーティが一般ルートから登ってきた。「北鎌から」「すごいねぇ」「渡渉は?」とひとしきり質問攻め。まあ、悪い気分ではない。彼らも結構詳しいようで、アプローチのことも良く知っていた頂上より北鎌尾根を望む
 しばらく頂上に留まっていたが、天気がどんどん悪くなってきた。13:10くらいからは、本格的な雪になった。急いで槍ヶ岳山荘まで下って幕営。
 その後も雪は間断なく降り続いた。
 翌朝起きてみると50−60cmの積雪。テントは半分埋まっていた。しかもまだ降り続いている。
 おそらくこれほどの雪だと、北鎌のトレースは消えてしまっているのではないだろうか。標高で言うと、どこくらいまでが雪になっているかは分からないが、少なくとも、北鎌平からの岩場は雪が付いてしまって、嫌な状態になっているはずだ。
 一気に槍まで来て正解だった。速攻の勝利ともいえる。
 条件に、に恵まれていたのだと思う。

 初めての北鎌は終わった。
 終わってしまった。
 加藤文太郎が、松濤明が逝き、数々の想い出がこめられた北鎌尾根。
 その北鎌尾根を越え、槍に到る事ができた。
 槍に登るのは、これが5回目くらいだろうか。
 ひとつの大きな目標が消え、また新しい目標に向かって進みださなくてはならない。
 北鎌は終わったのだから。

『それは、かつて幾度となくこの地を訪れたときの加藤が見た槍ヶ岳とは違ったものであった。荘厳でもあった。優美でもあった。あらゆる形容詞を以てしても、尚かつ表現できないものを槍ヶ岳は持っていた。加藤は、その槍ヶ岳が巨大な電磁体に見えた。そこから眼に見えない磁力線が投げかけられて、それにからめ取られて牽きつけられていこうとする自分を見つめた。何か呼吸の乱れさえ感じられるようであった。』
(「孤高の人」新田次郎)


『全身凍ッテ力ナシ.何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス』(昭和24年1月6日)
(「風雪のビヴァーク」松濤明)


5月1日(火) 快晴

0:19 急行アルプス 立川発
5:08 信濃大町着
5:45 タクシー出発
6:30 ゲートオープン
6:40 高瀬ダム
7:35-7:40 R1(林道終点)
8:40 湯俣山荘
8:50-9:10 R2(水俣川出合)10℃
9:35−10:10 「敗退トラバース」
10:20−10:35 R3
10:40 中東沢
11:30−11:40 R4 20℃
12:00 千天出合
12:30 倒木渡り
12:40−12:55 R5(P2取り付き)15℃
13:55−14:05 R6(P2肩)
14:30 P2
15:00 キャンプサイト(P3直下の岩場下2250m付近)着
16:00−16:30 天気図
18:15 消灯

5月2日(水) 曇りのち雪

4:00 起床
5:25 出発 5℃
5:40 P3
6:05−6:15 R1(P4) 5℃
6:20−6:25 P4コルでアイゼン着
6:55 56のコル
7:05−7:15 R2(P6) 7℃
7:45 P7
8:00 北鎌のコル
8:35−8:45 R3(P8)
9:20 P9
9:45−9:55 R4(独標) 9℃
10:15 P11
11:05 R5(P13?)
11:40 P15
12:05−12:20 R6(北鎌平) 2℃
12:55−13:15 R7(槍ヶ岳頂上)
13:35 槍ヶ岳山荘 −2℃
13:40−14:30 テント設営
16:00−16:30 天気図
19:30 消灯


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