「ヘッドランプの3cm外側」
南アルプス鳳凰三山縦走

2001年1月6日(土)〜8日(月)
メンバー:神谷(記)


≪SIDE−A≫
「ヘッドランプの3cm外側」
1月6日(土)
 甲府7:00発芦安行きのバスに乗る。この時期夜叉神峠まで行くバスはない。誰かタクシーに乗る人がいるなら同乗させてもらおう、そんな風に考えていた。しかし、急行アルプスを甲府で降りた山屋は、私を含めてわずか3人。彼等も、私がバスの時刻を確認している間に姿が見えなくなった。単に山帰りの人だったのかもしれない。
 やむなく、バスに乗り、芦安から歩く。結局約2時間かかって夜叉神峠登山口着。
 いよいよ本格的にスタートだ、と稜線へ向け歩き出すが、まるで雪がない。鳳凰三山というのはこれほどまでに雪がないのか、と愕然としつつ失望した。これでは小屋に辿り着けなかった場合、雪から水を作ることも出来ない。仕方がないから、峠から水を持って上がることにした。ズシリと重くなるザック。
 14時。予定の南御室小屋になんとか到着。テントを張って就寝。

1月7日(日)
 寒さで目が覚める。4時。まだ早いと思ったが、何かに急かされるようにシュラフから抜け出し、コンロに火をつける。
 今日は、薬師岳、観音岳、地蔵岳の鳳凰三山をピストンして、ここに戻ってくる予定だ。一人なので何をすることもなく、5時30分テントを出る。
 月も星も無い闇夜である。小屋付近にテントは幾つか張ってあるが、明かりは無い。皆、未だ寝ているのだろうか。一人ヘッドランプの明かりを頼りに樹林帯の登りにかかる。樹林の中は陽が当たらないためか、30cmほど雪が残っている。しかし、トレースはあるので、暗くても問題なく歩ける。
 樹林帯に入り、ますます闇が深くなった。ねっとりと絡み付くような闇である。闇の粒子が身体に纏わりついてくるようだ。まだ夜明けには時間があるのか、明るくなる気配は全く無い。ヘッドランプの照らし出す直径1mほどの円の中にトレースが映るが、その円の3cm外側は何も見えない。そこには闇が広がるばかり。すぐそこに何かがいても気付かないだろう。それほどまでに闇は深い。

「ヒッ」
 首筋に冷たいものが触った。思わず払い除ける。「何だ!?」と思い、首筋に当たるものを掴んで照らす。……ただの雪塊のようだ。
 何を怖がっているのか。闇の中一人出歩いていると、見えないものが見え、存在しないものが存在するように思えるものだ。でも、それは気のせいでしかない。何もあるはずは無いのだ。
 気を取り直して歩き出す。雪を踏みしめるキュッキュッという音だけが響く。一人で歩く闇夜。足音以外には何も聞こえない。
 ふと後ろに気配を感じた。
 誰か来たのか、と立ち止まる。しかし何も物音はしない。しかし、背後に何かの気配がする。人なのか、動物なのか、それとも……。気配は徐々に近づいてくる。
 振り返ろうとしたが、何故か振り返れない。振り向くのが怖い。
 もしも誰もいなかったとしたら、この気配は何なのか。もしも誰かいたとして、それが人でないものだったとしたら……。自分の後ろに広がる闇に、ヘッドランプの光を当てることに躊躇する。振り向けば全ては明らかになるのは分かっている。分かっているが、勇気がでない。
 「気のせい」と無視することにした。半ば強引に自分を納得させる。

 闇の気配を振り切る様に走り出した。ヘッドランプの光が上下に揺れる。トレースはあるが、滑りやすい雪の道。アイゼンは不要だが、駆抜けるのは結構つらい。5分ほど走ったろうか。息が続かなくなり、その場に立ち止まる。
 ……さっきより闇の気配は薄れたようだ。首をうなだれ、ハアハアと息をつく。
 と、先を行くアイゼンの新しい踏み跡が続いていることに気付いた。一人で薬師岳のほうに向かっているようだ。もしかしたら先行者がすぐ前にいるのかもしれない。一人では心細いと感じていたところだったので、少し歩を早める。
 が、中々追い付く気配は無い。
 そうだ、ヘッドランプを消してみたら、前方に明かりが見えるかもしれない。
 そう考えて、スイッチを切る。
 瞬間、闇に捕われた。真の闇。静寂。何も見えない。
 そのとき、何かが目の前を通りすぎた!
 そして、背後に忍び寄る気配が!
 怖くなって、スイッチをオンにする。が、点かない。
 何故だ。焦ってカチカチとスイッチを捻り続ける。駄目だ、反応無し。
 何かが、何かがすぐ目の前に迫ってきているような感じがする。息遣いさえ聞こえる気がする。何だ何だなんなんだ。
 スイッチを捻る指が震えてきた。頼む。頼むから点いてくれ。
 もう、はっきりと気配を感じる。手を伸ばせば届きそうなすぐそばに何かがいる。でも何も見えない。
 ヘッドランプを叩いてみた。反応無し。くそっ。自棄になって、2,3度叩くと、ようやく弱々しいがなんとか光を取り戻した。
 同時に、さっきまでの気配も感じられなくなった。
 イヤな感じだ。さっきのは何だったのだろう。早く夜が明けて欲しい。明るくなって欲しい。
 闇の住人達は、私のことを歓迎していないようだ。いまのところ、実害は無いが、何か悪意を感じる。隙あらば、飛び掛ってやろうとしているのではないか。
 怖い。一人で歩いていることの恐怖を改めて感じる。頼りになるのはこの弱々しいヘッドランプの光のみ。この光が照らしている範囲は”光の世界”。そこだけは信用できる。しかし、それ以外は全く不明確だ。
 人は闇を恐れ、火を使い、光を創り、闇を排除していった。
 しかし、ここは原初の森。人の力の及ばぬ世界。闇の世界。
 人知を超えた何かがあるのかもしれない。ここでは、人間の、生物としての根源的な恐怖を感じる。
 ともかく先を急ぐしかない。先行者がいるかどうかは分からないが、もう少しで薬師小屋だ。そこまで行けば、誰かいるだろう。そこで日の出を待とう。
 ピッチを上げる。早く、早く。気持ちばかりが焦る。

 6時。突然視界が開けた。
 砂払岳。闇の中に奇岩群が浮かび上がる。この先が、薬師小屋だ。
 一気に駆け下りて小屋の戸を開ける。
「だ、だれか!!」
 小屋の中は真っ暗だ。ヘッドランプで照らすが、人の気配は無い。
「誰かいませんか?」
 その声だけが空しく響く。誰もいないのか。
 無人と分かると、この漠とした空間が、逆に恐怖として感じられる。がらんとした小屋の中で一人じっと夜明けを待てと言うのか。駄目だ。そんなの耐えられない。たとえ外だとしても構わないから、歩いていたほうが気が紛れる。
 少しでも高いところへ行き、一刻も早く朝日を臨みたい。
 小屋を飛び出し、目と鼻の先である薬師岳(2780m)へ向かう。
 空が少し明るくなってきた。しかし、その分逆に闇の気配は増している気がする。日の出を前にして、何かが動き出したのかもしれない。
 薬師岳のピークの花崗岩奇岩群がうっすらと見える。あそこまで行けば、太陽を一番始めに感じられるだろう。ともかく、あのピークまで。

 小屋の樹林帯を抜けると、雪はなくなり、砂地になった。
 しかし、砂地は足が潜ってしまい、雪より歩き難い。ズブズブと足が埋まる。
 気持ちばかりが焦る。背中に背負ったザックが無性に重く感じる。テントやシュラフなどを南御室小屋においてきたので、昨日よりは軽いはずなのに。
 くそ。
 砂に足を取られながら、なんとかピークを目指す。
 あと少しだ。体が熱くなってきた。

 違う。やはりザックは重くなっている。明らかに重量が増している。気のせいではない。重力に引付けられている様だ。”闇”の力なのだろうか?ここで力尽きさせるつもりなのか。
 くっ。ちゃんとボッカトレーニングしておけばよかった。今更後悔しても遅い。手を膝にかけ、一歩一歩踏みしめるように歩く。
 鼓動が高鳴る。
 汗が目に入るが、それを拭うだけのエネルギーは残っていない。
 とにかく一歩踏み出すだけで精一杯だ。
 眼鏡が蒸気で曇ってきた。視界が狭まっていく。
 こんなところで。
 こんなところで力尽きてなるものか。
 一歩、また一歩。頂上はもうすぐのはずだ。
 と、手を伸ばすと花崗岩の感触を感じる。この岩を乗越えれば頂上だ。
 岩に手をかけるが、体を持ち上げるだけの力が無い。
 ザックはますます重くなってくる。
 最後の力を振り絞る。
 しかし、体は持ち上がらない。
 駄目だ。ザックに引っ張られる。
 もう、腕の力が無い。
 これまでか。

 と思ったそのとき。
 その、ときであった。

 雲海の向こう。富士山の左手から、一条の光が差した。
 太陽―――。
 その光は徐々に眩しさを増してきた。と同時に、ザックにかかっていた重さが嘘の様になくなった。
 ぐっと力を入れて、岩を攀じ登る。
 雲海の中、点であった光は、その全貌を現し、大気により楕円に歪むその姿を見せ始めた。
「助かった。光だ。」
 憶えず涙が浮かぶ。
 光とはなんと暖かく、安心するものなのか。
 闇を駆逐し、光を広げる偉大な太陽に感謝を捧げる。
 そして、世界が光に満ち溢れ、一日が始まった。

(この物語はフィクションです。実際の山行をベースにしていますが、現実の事象とは何の関連もありません。)

そのあと、鳳凰三山を縦走。
再び、南御室小屋に到着&泊。
1月8日(月)
起きるとテントが半分埋まっていた。
昨晩から大雪。
そして、ラッセル。
芦安までラッセル。

8日の行動に関する詳細(ノンフィクション)は、
≪SIDE−B≫
「歓喜のラッセル!」(近日公開予定)
にて。



1月5日(金)

23:50 新宿発急行アルプス

1月6日(土) 快晴

1:59 甲府駅
7:00 バス出発
7:50 バス芦安着
9:50−10:00 R1(夜叉神峠登山口)
11:00−11:05 R2(夜叉神峠)
11:50−12:00 R3(2045m)
13:00−13:10 R4(山火事跡)
13:45 苺平
14:05 南御室小屋着
14:05−14:35 テント設営
16:00−16:30 天気図
16:30−18:00 夕食
19:00 消灯

1月7日(日) 晴れのち曇り

4:00 起床
4:00−5:30 朝食、出発準備
5:30 南御室小屋発
6:40 薬師岳
6:52 ご来光
7:00 薬師岳発
7:25−7:35 R1(観音岳)
8:40−9:00 R2(地蔵岳)
10:00−10:10 R3
10:30−11:00 R4(観音岳)
11:20−11:30 R5(薬師岳)
12:10 南御室小屋着
15:30−17:00 夕食
18:00 消灯

1月7日(日) 晴れのち曇り

3:45 起床
3:45−5:15 朝食、テント撤収
5:15 南御室小屋発
6:45 苺平
7:15 山火事跡
8:00−8:15 R1(杖立峠指導標)
8:55−9:05 R2(夜叉神峠)
9:35−10:15 R3(夜叉神峠登山口)
11:05−11:15 R4
12:15 芦安着
13:22 バス芦安発


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